シコウノイッタン

落語や社会、本など、偏見だらけの話をつらつらと

イノベーション、イノベーションうるさいんだよ。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

仕事柄、まちづくりとか、コミュニティビジネスとか、そういうものに関わっている人とお話する機会が結構あります。

その中で、たまに「イノベーション起こそうよ」みたいな軽口を叩く人がいるんですが、そういう人は苦手です。
その発言の時点で、「イノベーションを起こすこと」自体が目的化していると思いますし、っていうか、そんなんでイノベーションが起きたら何も苦労せんわ、という感じです。何者かになりたいんですかね。そういう人は。

私はそういう人のことを影で「イノベーション起こしたいマン」と蔑んでいます。
そこからの亜種で「セミナーばっか行って良い学びになりましたってフェイスブックに書くけど何もしないマン」もいます。

正直、まちづくりの話に限って言うならば、自治体の人間がしっかりして、住民もしっかりすれば、別にイノベーションなんか要らないと思っています(もちろんそれが難しいわけで)。
それにイノベーションとかっていうけど、一般の人ってあんまり興味がないと思うんですよね。中には大事なことも確かにあるのだけど。

それを的確にリンク先が表していたので、一応引用します。


橋本:異業種交流会で、大勢で集まって俺たちでイノベーション起こそうぜ、みたいな会があるじゃないですか。多分参加してる人そんなに楽しくないですよね。一生懸命名刺配るけど。

佐々木:イノベーションって何なんですか?

橋本:ほとんど誰もわからないんじゃないですか? そもそもなんでイノベーション起こさなきゃいけないんですかね。イノベーションって、不安を解消するとか、社会課題を解決するっていう説明をする人が多いけど、お前らが負の話を語り始めるから潔癖になって生きづらくなっていくんだぞと言いたい。小さい負を見つけて持ちだすな。このままで十分幸せなんだぞと。


結構、的を射ていて、イノベーション至上主義になると、社会とか生き方に対して鷹揚になりづらくなるんですね。
だから聞いてもいないのに、イノベーションとか、それに通じる内容の話をし始める人は警戒しています。
頑張るところ、手を入れるところはもっと足元にあるはず。

 

【書評】『科学者と戦争』池内了 ~科学者と平和とは~

 

科学者と戦争 (岩波新書)

科学者と戦争 (岩波新書)

 

 読みました。
日本の軍学共同研究化が進みつつあることへの警鐘を鳴らす本です。

著者は科学の持つ力(使い方を誤れば人類をも滅ぼしかねない力)を認識しているからこそ、科学は平和利用にこそ使われなければいけない、と一貫して主張します。

時には第二次世界大戦における科学者と軍の蜜月を引き合いに出しながら、科学の平和利用の道を強く訴えます。

確かに、日本では、軍学共同研究の動きは進んでいるようです。
研究費に悩む科学者が増える中、軍部がちらつかす予算というものはなかなかに無視ができないものであるのでしょう。
言葉巧みに、そして第三者機関を挟んで間接的に軍が介入する、などのアプローチも増えてきているようです。
こうした現実には恐怖と違和感を覚えます。

ただ、著者の言う「科学の平和利用」、というのはどこか空虚に聞こえます。
確かに、平和利用ができれば良いのですが、その実現は、科学を通じてどうにかなることではないからです。さらには、いろいろな外部環境や、時勢、そして科学者本人の志向もあります。
著者自身も、その平和利用のための道筋には深く触れず、あくまで科学者たるもの倫理感・矜持を持つ(軍学共同は行わない)こと、という旨を書いています。

ですが、倫理の話でまとめると、最終的に、人間という生き物の生物学的な話になって、論が噛み合わなくなってきます。
そもそも、人類はこれまでの歴史の中で、絶えることなく戦争をしてきたわけです。
なぜか?
差異(人種・思想、etc)の問題です。
これに関しては、もう、本能に近いものです。この差異の排除という本能を、科学が超越することは不可能でしょう。実現するとしたら、科学で人をプログラミングするしかありません。
そんな反発を感じながら本を読んでいました。

確かに、戦後70年を過ぎ、今、日本はその平和主義に修正を加えようとしています。
時の経過というのは、あの悲惨な戦争から学んだ教訓すら反故にしてしまうのか、という嘆きも聞こえてきそうな気がします。

一方で外部要因が変わってきているのも事実です。
特に北朝鮮の情勢や中国の台頭など、外部の変化に対応するための修正という側面もあると思います。

あくまで、本書での著者の主張は
「科学とは平和利用のために使われるべし」であって、
「科学を平和利用するためにはどうすべきか」ではありません。

外部の変化にはあまり触れず、一貫した主張をしているので、どうにも浮世離れした印象を受けるのです。
そういう意味では、あくまで科学者らしい、関心領域を割り切った主張の本のような気がしました。

 

 

【思考メモ】正義は正しいとは限らない-相撲のゴタゴタから飛躍して私生活を考える-

seigiwww.nikkansports.com

相撲が揺れに揺れています。
正直、一ファンとしても戸惑っています。

多分、本質的な「正義」は貴乃花親方の方にあるのだと、私は思っています。相撲という縦社会の中でこれまで「くらわし」という慣習があったとはいえ、その範疇を超えた暴力があったことは、きちんと精算されるべきだと思います。

 一方で、「正義」ということを考えると、面白い考えが出てきたので少し書いていきます。

①後出しの「正義」は「身の不遇」から生まれるということ。

往々にして、既存の体制に対して正義を訴える人には、身の不遇であったり、支配への反発であったり、そうしたカウンター的なエネルギーが内在しています。
ところが、こうした正義は割りと歪な形をしていたりして、「確かに合ってはいるんだけど……うーん」的に捉えられて、どうにも最終的にマジョリティを形成するには至らないケースが多いように思います。

漫画やアニメなんかを見ていくと特に分かりやすいのですが、妙に「俺こそが正義だ!」と正義を声高に叫ぶタイプのキャラクターは、ほとんど敵役だったりライバルキャラだったりします。こうした人間が敵に当てはめられてしまうのは、その正義の存在自身に、人は怨恨というか違和感のようなものを感じ取ってるのかもしれません。

いずれにせよ、正義の生誕には、そうした反発の力があるのは間違いがないと思います。
その過程において、マジョリティを奇跡的に得たものが既存の正義であると言えるかもしれません。
そして逆にいえば、振りかざされるような正義は最早正義として成立しえない「っぽいもの」なのかもしれません。
いずれにせよ、これが正義の起源。

②正義は正しいことではない?

で、マジョリティの話になってしまうと、「正義は本当に正しいかどうか」、というよりも数字的な合理性の問題になります。どれだけ大衆との間の最適解になるかです。
さらにいえば、正義は絶対に存在するかもしれないが、市民権を得ない限り顕在化できない、ということです。存在自体に、構造的な欠陥があるといってもいいかもしれません(もちろん、それはモノ・コト、思想一般にも適用できるものではありますが)。

そして、市民権が得られていない状況が、今の貴乃花親方かもしれません。
ここには、後述する組織の倫理という磁場の影響があります。

③現状を支配している正義(ルール、慣習)は言葉を話さないが、不気味に人々を抑圧し、自分自身も自動的に抑圧する。

 いわゆる「現状の体制=組織倫理」というのは、鍾乳洞のつららみたいなもんで、長い年月をかけて「作り上げてきたという事実」と「その中で形成されてきた思想」という2つ(もっとあるかもしれませんが)で以て、それを取り巻く人々に無言の圧力をかけます。
本当は動かした方が良いのだけど、「国指定の天然記念物なんでお手を触れないように」みたいな、扱いが難しい存在です。
そして、関係者は、それに折から触れることで「現状の体制」の機嫌を損ねないよう、自らを意識でもって律します。これが自動化のメカニズムです(まんまフーコーの論から影響を受けています)。
組織の倫理は自動的な抑圧装置ですので、ある程度の議論や疑問を自動で排除します。
排除しきれないバグは、組織倫理委員会(偉い人)が介入します。

日常を支配している正義は知覚できないものです。「ある」のが普通で正義として認識されませんが、一般常識、という言葉が一番それに近いかもしれません。

半沢直樹的な義憤の行方。

で、こういう話を書いたのは、まさに正義vs倫理みたいなシチュエーションにあるからです。
私は正義を通したい。
組織は、組織のネジ曲がった都合を押し通したい。そんなせめぎ合いが、今まさに職場で繰り広げられています。(下っ端なので非常に旗色が悪く、降伏寸前ですが)。
この果てには、傷つく双方の姿が目に浮かびます。
それは今回の件でいえば、協会と貴乃花親方、そして一般ファンを含めた関係者たち、全員の姿であり、私と上司と仲間でもあります。

そして、そこを一周したところで、世間一般から見ると、私自身が敵役の顔をしていること気付かされるのだろうと思います。幼稚だとか、エゴイストだの誹りを受けながら。

恐ろしいバッドエンドを想像してしまいましたが、正義をめぐる対立とはそんなもんなのかもしれません。

※メモなので頭の中ぐちゃぐちゃです。

(了)

【雑記】「肌色」を「うすだいだい色」と呼ぶ時代

肌色はどこへ行った?

聞いた話なのですが、今、教育の現場では、「肌色」の色鉛筆がないそうです。
では「肌色」はどこに行ったのか?というと、「うすだいだい色」という名に姿を変えたとか。
もちろん、これはご明察のとおり、人種配慮の観点からの変更です。

これを聞いたときに、昭和生まれの人間としては「なんだかなぁ」と思ったものです。
肌の色は、日本人が「肌色」で思い出す「あの色」とは限らない、という配慮なんでしょう。

時代の要請もあるのでやむを得ないのもわかりますが、それにしても以下の2点ほどに違和感が残り、一人モヤモヤします。

 

①そもそも、「うすだいだい色」というネーミングセンスはどうなのか?
確かに「あの肌色」はそんな感じの色とも呼べなくないのですが、いささか安直すぎるような気がします。
「うぐいす色」とか、「やまぶき色」とか、日本には雅な名前の中間色もあるわけです。その辺りをすべてすっ飛ばして、「うすだいだい色」というのは、なんだかサボりを極めた感じを受けるのは気の所為でしょうか。
よく知りませんが、そういうところから子どもの情緒が育つような気がします。
あんず色とか、玉ねぎ色とか、なんか遊びのある名前にしてほしいと思うのは私だけでしょうか。

 

②「うすだいだい色というネーミングにただよう、とりあえず臭いものに蓋しとけ感」
とりあえず「うすだいだい色」というネーミングをつけとけば、ゴチャゴチャ言われなくてOK的な弛緩した空気もここには感じます。
でも大事かつきちんと教えるべきことは、「肌の色は人種によって様々だけれども、それによって差別が起きていいものではない」ということです。
これは本質であり、ここへの配慮があるから「肌色」を消し去っているのに、「うすだいだい色」といネーミングで結果的に本質を隠してしまう、という大きな矛盾をおこしています。
いってしまえば、この逃げの姿勢は、本来の人種的配慮の意思に対する妨げにもつながりかねないと感じるのですが、どうなんでしょうか。


話が飛躍するのですが、ついでに書きます。
競わない運動会というのも、最近は結構当たり前のようになっています。
でも、子どもの頃から競争を取り上げられてきた子どもたちは、これからの荒波が訪れるであろう社会を本当に乗り切れるのか心配にもなります。
勝った負けたが生じるのは当然です。そこには得手不得手や、さらにはハンディキャップもあり、絶対にイーブンにならないのが世の常です。

だから、その現実を受け入れ、勝ち負けを通して、何かを感じさせる、次の一手を教えることが教育に必要なことのような気がします。その辺の丁寧なプロセスをすっ飛ばすと、これから大変なことになる気が、しました。

とはいえ、現場では「個別に教えるそんなめんどくさいことやってられるか」という現実もあるのは重々承知しています。
ただの理想論ですが、少なからず、家庭ではそういう風な教えをしなくてはいけないなぁと感じる今日このごろです。


ここまで書いて、以前にちらっと書いた保毛尾田保毛男の観点から見ると、私にも大いなる矛盾が感じられます。人種差別の比喩ともとれる「色鉛筆」はOKで、性差別の比喩である「保毛尾田保毛男」はNG。
2つの記事から考えるとそういうことになり、最後の最後で「ううむ」とうなっている次第です。

今日は以上です。

【了】

雑記【話題の吉祥寺「ココマルシアター」へ】

以前にも少し書いたのですが、吉祥寺にできた話題の映画館、「ココロヲ・動かす・映画館 ◯(通称:ココマルシアター)」が完成したとのことで、行ってきました。
いろいろネットで言われているけど、実際どんな所なんだろう、的に書いたつもりなのですが、とっちらかって読みづらくなってしまいました。すいません。
(なお、長文です。)

映画館の詳しい経緯は下記が詳しいのでご参照ください。

togetter.com

要はクラウドファンディングで金を集めているのに、全然約束が守られない、総支配人の杜撰なやり口に、一部の映画ファン(通称:ココマルウォッチメン)や出資者から非難が集中し、プチ炎上案件となっている映画館です。

■私のはなし(諸前提)

ちなみに、私は出資はしていません。ただ以前吉祥寺にあった「バウスシアター」には月2回くらい通っていた、「割と映画が好き」な人間でした(過去形なのはバウスがなくなって以降、映画を見なくなったから)。
で、同館が「バウスの意思を継ぐ」的な発言をされていたので、期待と関心を持って見守っていました。私はあくまで「にわか映画ファン」ですが、金太郎飴みたいな「どこにでもある街」になりつつある吉祥寺において、「ミニシアター」という文化発信拠点には、どうしても期待せずにはいられませんでした。
そうした期待もあって、危うっかしい対応を見せる同館に対し、外野ながらヤキモキしてしまい、時にTwitter上で偉そうに述べたり、言ってしまえば煽ってしまうこともありました。
その点は反省もしています。

とはいえ、一方的にものを言うのはフェアではないですし、完成を楽しみにしていたというのは事実なので(まぁどこかで完成しないで欲しかったというのも本音)、とある日に足を運ぶことにしました。
映画ファンではない、一般ユーザーとしてなるべくフラットに記述をしたいと思います。

■感じたこと

①心理障壁となっている外観周辺

まずは、入りにくいと思いました。
厨房部分のシャッターが閉まっているせいもあるでしょう。
あとはファサード周辺から読み取れる情報がとっちらかっています。
カフェなのか、バーガー屋なのか、はたまた何屋なのか一見して分からないのは、入りにくさを助長するので致命的です。
映画館は「映画」を見るためにあるのであって、「激旨バーガー」はあくまでツールのひとつです。そんなにプッシュする必要はないと思います(カフェのコンセプトを押し出したいというのもあるのでしょうが、ぼやけたコンセプトは結果的に顧客を遠ざけます)。

なので、これからは外観周辺のテコ入れが必要になりそうです。
デジタルサイネージを導入して、今上映中の映画の予告編や、上映スケジュールを分かりやすく通行者に訴求した方が集客に繋がると思いました。
さぁ、勇気を出して入りましょう。

②見えないシステムと料金体系と館の全貌

勇気が要るのは、ココマルシアターのホームページから情報が読み取れないことにも一つの原因があります。

www.cocomaru.net


映画館のホームページには公開情報はもちろんのこと、館内の様子写真や鑑賞料金、メニュー諸々が掲載されていると思うのですが、ココマルシアターに関してはその限りではありません。
トップページの外観もパース画像ですし、館の様子写真もありません。
正直言うと、お洒落なコンセプトの割りにホームページがひどくチープな印象を受けました。
ホームページは、仮想空間上の玄関です。玄関が汚いと、特に遠方から来ようとするユーザーは一層の勇気が要ります。

あとは、ホームページのほかにも、主要SNSなど、いろいろなメディアで情報発信をされているのですが、情報が散発し、結果的に錯綜して読みとりにくくなっています。

基本的には、ホームページとSNSは主従の関係ですので、一元的にホームページで情報を管理し、そこからSNSに派生させるやり方のほうが良いと思います。
情報は直接確かめましょう。

 

③オペレーションはまだまだ改善段階

私はかつて接客をしていたので、どうしても接客に関しては小姑みたいになってしまうのですが、スタッフは明るくて素敵な感じです。ここは良かったです。

ただ、全体的にオペレーションがギクシャクしていて、錬度の低さは否めません。
気持ちの上では肝要に見守ってあげたいのですが、ビジネスやCS(顧客満足)として考えると、言い訳が立たない点です。

余談ですが、メニュー表を見ながらビール(380円)を頼んだのですが、「エビスとアサヒ(確か)がいいか?」と問われて「エビス」と答えたら「エビスは450円です」と言われて戸惑いました。「裏メニューかよ」と突っ込んでしまいそうでしたが、こういう無駄なやりとりも時間のロスになります。
何しろ、窓口が一つしかないんですから。
こうしたことからもオペレーションの強化の必要性を感じました。
 さぁ、映画をみよう。

 

 ④映画鑑賞に際して感じたこと

映像や音響については素人なので特に述べません。
ちなみに私は1階で『マイビューティフルガーデン』を鑑賞したのですが、面白かったですよ。
あとは気になった点をいくつかを殴り書きします。

(1)噂にもあったのですが、ちょっと空調が寒いかなぁという印象
⇒ちょっと寒かったです。
(2)天井が低くてちょっと圧迫感
⇒これは私のミニシアター体験が乏しいための主観かもしれません。
(3)非常に申し訳ないのですが、なんだかとっちらかった印象
⇒なんかよく分からないのですが、雑然としている印象を受けるんです。例えば後述の椅子の並びとか、暗幕のカーテンレールがひん曲がってるとか、スピーカーの配置とか飛び出したカーテンとか。いずれにせよ主観です。

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シアターの一部内観

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シアターの360度画像(ダウンロードしてGoogleフォトにアップロードすると360度ビューで見られます、多分)

(4)一番気になったのは椅子

赤い座席は素敵だったのですが、最前列に陣取った紺色のリラックスチェア。
これは結構背が高いので、後ろの席の人が見づらそうな気がします。
しかも、見た目にチグハグ感が出て、お世辞にも良いとは思いません。

そして、何より不味いなぁと思ったのが、この紺色の椅子、私の家にあるIKEAの椅子の色違いのような気がします。

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IKEA謹製の椅子

こういう詰めの甘い部分は顧客として残念です。
(人にもよるとは思いますが)映画館で見る映画体験というのは、「ハレとケ」でいえば「非日常」である「ハレ」にあたります。
そこには館自身にも「ワクワク感」が必要とされるのですが、家に同じ椅子があるとなんだか興冷めしてしまいます。
 家帰ったら同じ椅子が待っていた。

 

■まとめ~ 一回色んな棚卸しをしてやり直せる、かなぁ?~

もうなんだか疲れてテンションが下がってきたので、そろそろ終わろうと思います。

とっ散らかった外観やコンセプト諸々を軌道修正すれば、立地もいいですし、素人的にはポテンシャルは結構あると思います。
情報の透明性の確保と、良い広報戦略を作れれば、愛される映画館にもなるやもしれません。

いろいろネットで言われて(私も含む)大変だと思いますが、そういう人の言葉は結構、愛情が詰まっていたりするので、真摯に向き合って、地域に根ざす映画館になればと思います。

ただ、このままマイペースで突き進むのであれば、経営状態は不安に感じます。


忖度に忖度を重ねたので疲れました。以上です。

【了】

【「スノーデン 日本への警告」を読んで】 現代型パノプティコンへの道

 

スノーデン 日本への警告 (集英社新書)

スノーデン 日本への警告 (集英社新書)

 

 読みました。

キンドル版を買ったので中身を見ずに買ったのですが、スノーデン氏が都内の大学で「講演を行った際の記録」と言うべき本です。
対話の記録なので、スノーデン氏が、氏の考えを存分に示していないという点は、注意を払う必要があると思います。まぁこの辺はパネリストが引き出せていない、というべきかもしれませんが。

印象に残ったのは、あくまでスノーデン氏は、自分の役割は「情報のリークのみ」にこだわっていたということですかね。
リークはしましたが、あとはそれをメディアへ委ね、メディアの言葉によって世界に届けることを望んでいました。
その思惑の裏には結構いろいろとありそうですが、真の意図は分かりかねます。世界の変革という大義をそのまま信ずるのは私の性分では難しいです。

さて、もう一つ印象に残ったのが、携帯電話を中心とした監視型社会の話です。
スマートフォンは、個人データの集積とも呼べるもので、端末の繋がっている先は、完全な監視下に置かれているという事実です(もちろん、年がら年じゅう見られているわけではありませんが)。

これは現代版

パノプティコン - Wikipedia

とも呼べるもので、見えない先を、誰かが常に見ているという監視社会が形成されています。見られているという緊張が、社会の規律を促進するという考え方もあるのですが、なんとも言えない気味の悪さはつきまといます。
まさにオーウェルの「1984」における「テレクスリーン」がいつの間にか完成していた、という感じです。

f:id:rakugoafro00:20171030135012j:plainパノプティコンの図(Wikipediaより)

これらの機構に対して、個人が何ができる、というわけではないですが、常に危険性を認識し、リスクを勘定に入れた生き方が、現代社会では必要になると思いました。

この流れで監視をテーマにした哲学者ミシェル・フーコーに関する「フーコー入門」を読んだので、また今度書こうと思います。

 

走り書きですが以上です。

 

【「未来の年表 人口減少日本でこれから起きること 」を読んで】自治体の新しい教科書

 

 読みました。
実に丁寧に、これから日本社会に起こりうることが記述されています。
この本は、自治体にとって教科書とされるべき本だと思います。

「著者の考えを信奉しろ」、とかそういうことではありません。
確度の高い未来予測として、逐次、この未来年表と、自治体の動きを見合わせ、
「この本の内容の通り」にならないよう、ひとつの指針・教科書とすべきものだと思いました。

日本の未来というのは、このままで行くと、かなり暗いものになるでしょう。
今の政治家の様子を見ていると、露骨に負担を後の世代に残そうとしていますので、特にこれから生まれてくる世代などにとっては「生まれることがリスク」という強い言葉も、完全に否定はできないかもしれません。

もちろん、そうならないように、(私を含め)地方自治体に関わるものとしては、良い社会づくりにコミットしていきたいとは思っています。
ですが、経済が縮小している以上、行政サービスの縮小は必ず起こります。

そうした中で、「行政に頼らない生き方」「行政に影響を与える生き方」など、(やり様はさまざまですが)一人ひとりが「社会的な個人」としての役割を強く担うことが必然的に必要になってくると思います。

もともとこうした考えを持っていたのですが、この本を読んで改めて現状と未来を再認識することができました。非常に意義深い本でした。

ちなみに、
この手の本によくある、政策提言みたいな後半部分は、微妙な気がしました。
良い部分と悪い部分があるな、という感じです。

以下は、アマゾンの商品紹介からの引用です。これを読むだけで、いかに日本社会がやばいか分かるかと思います。
本は売ってしまいますが、悩んだらここに戻ってこようと思います。

評者:長薗安浩

(週刊朝日 掲載)
内容紹介
日本が人口減少社会にあることは「常識」。だが、その実態を正確に知る人はどのくらいいるだろうか?
人口減少に関する日々の変化というのは、極めてわずか。ゆえに人々を無関心にする。だが、それこそがこの問題の真の危機、「静かなる有事」である。

書店には、人口減少・少子高齢社会の課題を論じた書物が数多く並ぶ。しかし、テーマを絞って論じるにとどまり、恐るべき日本の未来図を時系列に沿って、かつ体系的に解き明かす書物はこれまでなかった。それを明確にしておかなければ、講ずべき適切な対策とは何なのかを判断できず、日本の行く末を変えることは叶わないはずなのに、である。

本書が、その画期的な役目を担おう。
第1部は「人口減少カレンダー」とし、年代順に何が起こるのかを時系列に沿って、かつ体系的に示した。未来の現実をデータで示した「基礎編」である。第2部では、第1部で取り上げた問題への対策を「10の処方箋」として提示した。こちらは、全国の公務員・政策決定者にも向けた「応用編」と言える。

これからの日本社会・日本経済を真摯に考えるうえでの必読書!

【目次】

はじめに
第1部 人口減少カレンダー
序 2016年、出生数は100万人を切った
2017年  「おばあちゃん大国」に変化
2018年  国立大学が倒産の危機へ
2019年  IT技術者が不足し始め、技術大国の地位揺らぐ
2020年  女性の2人に1人が50歳以上に
2021年  介護離職が大量発生する
2022年  「ひとり暮らし社会」が本格化する
2023年  企業の人件費がピークを迎え、経営を苦しめる
2024年  3人に1人が65歳以上の「超・高齢者大国」へ
2025年  ついに東京都も人口減少へ
2026年  認知症患者が700万人規模に
2027年  輸血用血液が不足する
2030年  百貨店も銀行も老人ホームも地方から消える
2033年  全国の住宅の3戸に1戸が空き家になる
2035年  「未婚大国」が誕生する
2039年  深刻な火葬場不足に陥る
2040年  自治体の半数が消滅の危機に
2042年  高齢者人口が約4000万人とピークに
2045年  東京都民の3人に1人が高齢者に
2050年  世界的な食料争奪戦に巻き込まれる
2065年~ 外国人が無人の国土を占拠する
第2部 日本を救う10の処方箋 ――次世代のために、いま取り組むこと
序 小さくとも輝く国になるための第5の選択肢
1・「高齢者」を削減
2・24時間社会からの脱却
3・非居住エリアを明確化
4・都道府県を飛び地合併
5・国際分業の徹底
6・「匠の技」を活用
7・国費学生制度で人材育成
8・中高年の地方移住推進
9・セカンド市民制度を創設
10・第3子以降に1000万円給付
おわりに 未来を担う君たちへ
結びにかえて