シコウノイッタン

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【書評】『不平等論』ハリー・G・フランクファー卜 〜他人の定規で生きていないか?〜

 

不平等論: 格差は悪なのか? (単行本)

不平等論: 格差は悪なのか? (単行本)

 

 読みました。
やや言い回しは難解なものの、言っていることは割合シンプルな本です。

そもそも、フランクファートは、道徳哲学の分野における大家であり、その「道徳」という視点から、世にはびこる平等主義を批判しているのがこの本です。
第一部では、経済学的分析から平等主義を解体します。
そして第二部では、まさに道徳的な視点から、同様に解体を試みます。
そもそも、なぜ氏は平等主義を批判するのでしょうか?


平等主義はなんら道徳的価値を持たない

さて、「平等に」「格差だ」という言葉は
 ー特に新自由主義の下でその含意を成長させたと思っているのですがー
近年、その影響力を増しているように思います。

ところがその声が志向する、「平等」とやらも「格差」とやらも、それ自体がなんら道徳的価値を持たないことを氏は切々と語ります。
なぜなら、「平等」や「格差」は、「十分に持つもの」と「持たないもの」から派生的に生まれるものであって、根源たる「十分性=充足性ドクトリン」にこそ道徳的価値があり、目が向けられるべきものだからです。

格差は当然なくなりません。
大事なのは、格差があるという前提のもと、その人が十分に生きていくのに困らない程度の財が与えられているかどうか、ということです。ここにこそ、我々が着目すべき、道徳的価値が潜んでいるわけです。

結果的に、十分性を追求すること(例えば税の配分の見直しなど)で、格差が縮小したり、平等性が増すことは考えられますが、そもそもの力点が違う、と氏は訴えます。

批判は続きます。
「平等に」という言葉は響きは良いのですが、要は平等主義というのは究極の効率化、はたまた「サボり」なわけです。
なぜなら、人はそれぞれに置かれている状況は異なります。億万長者の持つ1万円と、貧乏人の1万円は、まるで意味が変わってきます。

そうした現実を排除し、マクロ的視点から平等主義こそがドグマであると信奉していくのは、間違っている、と。(この辺は、先の地域振興券なんかを想像するとその不当性がよくわかります。)
要は一人ひとりの状況をもっと真剣に考えろというわけですね。

そして、一人ひとりの置かれている状況が違う以上、他者との比較自体がさして意味を持たないとも、氏は主張します。

「年収はどれくらい欲しい?」と聞かれ、
「うーん、1,000万くらいあったらね」
なんて会話をすることがあるかもしれません。

でも、この「1,000万円」。一体どこから来たのでしょう?
その人は、自分の人生に必要なキャッシュを計算し、1,000万円と答えたのでしょうか?
違いますね。この数字は借り物でしょう。

平等主義が問題なのは、他者に大きく影響されてしまう点です。
十分性に視点が根ざしていれば、自分に必要なお金はこれだけと言えるのでしょうが、平等主義はどうしても視線が外に向かいます。

そうした意味で、他者の定規で生きてしまう、という危険性を氏は指摘しています。(この辺りの説明はもっと鮮やかなんですが、どうにもうまくいきません)。

これらが、大体第一部の骨子。

第二部は短くて、概ね概念の話です。
私の解釈では、平等とは非常に大雑把で包括的な概念で、その下には、「尊厳」だとか「配慮」といった本質的な概念がぶら下がっているようです。
つまり、第一部でも、平等は十分性の派生的な「ただの現象」として扱われていましたが、そうした関係性です。
本質的な概念にこそ、道徳性が潜んでいて、すべての人を平等に扱うことは、むしろその人の持ち合わせている人間性に目を向けないことであり、尊厳の棄却であると、表現します。


まとめ

最終的に、我々はこの本からの学びをどう解釈すべきか。
一つは無意識的に平等を志向する精神を改め、その対象がもつ本質的なものを見る「まなざし」を獲得すべき、ということでしょう。
それには多大な苦労や、非効率でさえあるけれども、道徳という概念を実践していくには必要な試みです。

そして、そのことを、現在の社会は否定し、平等に扱おうと振る舞います。その誤りを、危険性を本書は批判しているだけなのです。

もちろん、実社会において、個別の状況を踏まえることは不可能です。
そうした事実から切り離され、あくまで道徳的観点から社会を批判していることを氏はきちんと明言しています。
一応補足。

とっっちらかりました。


残業100時間しても

夢を見た。
電車で昔の上司にあったのだ。

私は昔、雑誌の編集プロダクションで働いていた。
業界の常だろうが、残業は毎月100時間を越え、給料もバイトより安いという、今で言うブラック企業であった。

おまけに人間関係も厳しく、人が毎月一人辞めていくという有様だった。

私もかなり精神的に参った所で職を辞すことになるのだが、あれ以降、あの業界に戻ることはないと決意している。

さて、夢ではたまたま電車に乗って、隣に座ったのが、めちゃくちゃキツイ上司だった。
ところが、私は彼女に対して開口一番、
「以前職場ではお役に立てませんでしたが、あの経験は貴重なもので、今でも感謝してます。」
と、伝えたのだ。

これは本心だ。
過剰な残業をこなせる様には人間の体は作られていない。
今、そんな働き方をしてる人も、どこかでそれは逃げ出したほうがいいとは思う。
ただその一方で、私にとっては、それが得難い経験として、自分をどこか強くしているように感じる部分があるようだ。

そうした意味での感謝なのだろう。

もちろん、人によっては不要な経験であろうし、それによって命を絶ってしまった人もいて、けして過剰労働を肯定するのではないが、自分がそういう捉え方をしていることを夢で教えられて、朝起きて不思議な気持ちになった。

仕事を辞めろ。というお告げなのかもしれない。

「楽しむための万人性のパラドクス」

headlines.yahoo.co.jp

「楽しむための万人性のパラドクス」と私が勝手に名づけている事象があります。

「楽しむ」、という領域のプロダクトにおいて、「万人」のために何かを作ることは、かえって「万人のためにならない」という事象です。

公園を例に挙げます。
小規模な公園を作るときに、ダメな役所は絶対にこう考えます。
「お年寄りや皆が座れるベンチは必要だな。それと子どもが遊べる滑り台と鉄棒も入れよう。あと幼児でも使える乗り物も設置しよう」

こうした思考停止で作られるのが、万人による、万人のための公園。巷に溢れる「ザ・ダメ公園」です。
結果的にスペース効率が悪くなったり、用途が中途半端で、逆に使いづらくなります。
だったら自由に使える原っぱの方が案外楽しかったりします。
(そして、最近それを輪にかけてダメなのが、万人のため思想を突き詰めた結果、ボール遊び禁止、野球禁止、などなど、なんでも禁止にしてしまう公園ですね)

「楽しむ」という領域は人ぞれぞれの感じ方があるので、こうした全方位を固める思想は、そもそもの「楽しむ」という行為の逆説的な否定でもあります。
(そうした否定を包含して、楽しませることができれば、それはイノベーションと呼べるのかもしれませんが。)
つまりは、特定のチャンネルに向けて周波数を送らないと、「楽しむ」は成立しないということです。

これが「楽しむための万人性のパラドクス」。

一方で、万人のために作られて、うまく行くものもあります。
ユニバーサルデザイン」ですね。
これは「利用」という領域のプロダクトなので、「楽しむ」のような主観がほとんど介在しませんのでうまく機能します。

で、冒頭のニュースを見ると、特定のチャンネルに向けることでその歌が存ずるわけで、異論が出るのはもちろん当たり前なのですが。。。
ボコボコに叩くのは、その実、自らを均質化し、誰も傷つかないけど、誰も感動しないものを所望しているような印象を受けます。
わざわざ非難することもないのに、と思うのですが、、、
このことを妻と話したら、激論になりました。

男と女でもまた、感じ方が違うようです。
うーん。
なんだか途中で自信がなくなってきたので止めます。



【落語】「甲府い」あらすじ

私、「甲府い」という話が好きなんです。
高座でかかっているのは未だ見たことがありませんが、古今亭志ん朝師の「甲府い」は何度も見ます。

youtu.be
この噺が好きな理由は、とても爽やかだからです。余韻がとてもいい。

男はつらいよ」は、最後に寅さんが旅に出て、日本の美しい風景とともに映画が終わるのですが、「甲府い」もそんな感じ。
美しい光景が最後に観客を突き抜けていくような、そんな感じがあって好きなのです。

《「甲府い」あらすじ》
甲府から仕事を得るために江戸に出てきた善吉。
法華宗の信者でもあった善吉は、「仕事を得て一人前になるまでは故郷に帰らない」と願をかけてきたものの、財布をすられ一文無しに。

行き倒れ寸前のところで、豆腐屋にあった卯の花を盗み食いしてしまい、店の若いもんにとっちめられてしまう。
そこに出てきた店主。訳を聞くと可哀想になったうえ、店主もまた法華宗。人手が足りなかったこともあり、善吉を働かせることにした。

店は法華豆腐とあだ名される人気店。
特に人気なのが、ごまがたっぷり入ったがんもどきだと言う。
店主から
「豆腐ぅー、ごまいり、がんもどき」という売り声を教えられ、それを言いながら、一生懸命売り歩いた。

あっという間に3年が過ぎ、気づけば善吉は立派な豆腐屋の一員に。
店主も、その妻も、善吉の誠実な人柄に一目置いていた。

二人にはお花という一人娘がおり、善吉を婿に迎えるのが良いのではないかという話があがる。お花も、善吉の話をすれば顔を赤らめる始末なので、話はすぐにまとまった。

豆腐屋の養子に入った善吉。
善吉は早くに両親を亡くし、甲府にいた叔父に育てられた。
その叔父に結婚の報告をしたいから5、6日暇をもらいたいと申し出る善吉。
ついでに、願掛けをしてきた身延山へもお参りしたいという。

翌日、早速荷物をまとめ、お花と二人、いつもと違う綺麗な服装に身をつつんだ爽やかな若夫婦が、甲府に向かって街道を歩いて行く。

それを見た町人は、いつもと違う二人の様子に驚き「二人してどこへ行くんだい?」と声を掛けた。

善吉はいつもの売り声の調子で答える。
甲府いー」
続いてお花が
「お参り、願ほどき」



 

……この山田洋次感、なんとなくおわかりいただければ、お友達になれるかもしれません。

【書評】『忘れられた日本人』宮本常一 ~日本人のタイムライン〜

 

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

 

 近所に、「クラリスブックス」っていう素敵な古本屋があるんです。

東京 下北沢 クラリスブックス 古本の買取・販売|哲学思想・文学・アート・ファッション・写真・サブカルチャー

この前初めて行ったのですが、本のセレクトがなかなかツボで、この本もここで買いました。

本の内容としては、地域の古老の「聞き書き」です。
非常によく喋らせているし、語られていることは、民俗学的に貴重なものだと思います。従ってその手の勉強をされている人(というかこの本自体非常に有名なのでわざわざ言う必要もないのですが)には有益な書なのだと思います。

一方で、私のような門外漢からすると、
「かつて日本という国にこんな人たちがいて、こんな暮らしをしていました」程度の理解しかできないので、ここに書かれていること自体は有益な情報になり得ません。
夜這いの話とかがかなり出て来るのですが、真似できるわけないですからね(しかし、夜這いって改めて謎の風習だな、と。不倫が霞んで見えます)。

門外漢にとってこの本は、過去の日本人像を知り、現在や未来の日本人の姿について比較したり、想いを馳せる、といった使い方が有益になると思います。

実際に登場している古老の生き様は、現代人のそれと大して変わっていません。要は社会(自然)の中に、普通に生きて、普通に死ぬのです。

過去であれば、自然とともに生き死にをするし、現在であれば自然と離れた生き死にですが、本質の部分は何も変わりありません。
ただ現代は小道具が増えただけです。

ってな感じに、日本人を抽象化して見つめ直せる本であるような気がします。
適当な感想です、はい。

【落語の話】落語を鑑賞するときに気をつけたいマナー

http://temita.jp/twitter/56412

寄席にはたくさんの人がいるので、鑑賞のマナーについてイライラしてしまうこともあるのですが、概ね上記リンクの通りだと思います。

老人会だろうか。
集団で座っている高齢の方などは特に私語がうるさいことが多い気がします。
私の見立てでは、初めての寄席でテンション上がっているんでしょうけど、正直噺家が喋り始めたら口を閉じて欲しいとは思います。

大衆演芸なので、グチャグチャ言わず、楽しく鑑賞してくれていいんですが、私語で声が聞こえないのは流石に困りますからね。
でも、本当に多いんですよ。噺家の話を聞かずに、自分が話始めちゃう人。そのまま高座に上がればいいのに(笑)と思います。

さてさて、以下は、落語のみならず、芸能鑑賞だったり色んなときに大事にしていること。みんなが他者を少し気遣えば、もっと良い世の中になるのにね。

・幕間以外は私語禁止
・音のなる食べ物、または包装のものはなるだけ避ける
・携帯はマナーモード
・肘掛けは譲り合い(占拠しない)
・無駄に脚を広げない
・鼻水をすすり続けない(鼻炎なのかずっとすすり続ける人っていますよね。とりあえずかんで欲しい)
・貧乏ゆすりをしない

皆の気持ちの良い鑑賞のために、意識啓発をもっと(こういう個人のブログも含め)できていけないかな、と強く思います。

相変わらず何の落ちもない雑文で申し訳ありません。


超余談ですが、私は鼻がよく、煙草とか口臭にとても敏感な、めんどくさい体質です。
隣にめっちゃ臭い人とか座ると悲劇なので、寄席行くときは大量のマスクを持っていきます(笑)
いや、でも臭いも大事。

【書評】『日本軍兵士ーアジア・太平洋戦争の現実』〜排除された現実〜

 

日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実 (中公新書)
 

 読みました。
良書だと思います。
私は、今、戦争体験者の記録映像を制作しているので、少しでも参考になればと購入したのですが、購入してよかったと思いました。

本書は「太平洋戦争」をテーマに、「最前線の兵士の死はどのようなものであったか?」という非常に重い論点を、膨大な資料とデータをもとに淡々と綴っていきます。

それらは、「零戦で死地に向かう」とか、「戦艦大和とともに沈む」とか、映画になるような物語性とはかけ離れた、ただただ陰惨な世界です。言い換えれば、歴史の表舞台から排除されてきた現実です。
戦記物はそこそこ読んでいるつもりですが、改めて知ったことを箇条書きします。

・戦死よりも病死が先行する前線→死因は操作される
自死率の高さ→これも操作される
・(精神)障害者まで兵士として徴兵する戦争末期→徴兵の基準をドンドンと下げていく窮乏国家
覚せい剤の蔓延する前線
・負傷兵を殺害する自国兵
・虫歯に苦しむ兵士
・兵士の体格劣化、若年化→軍服のサイズが小さく
心神耗弱が蔓延→発狂、戦争忌避
・休暇のない日本兵・公的休暇は存在するが使えなかった→欧米は、定期的に休暇を設定、本国へ帰ることもできた※この点、現代の日本企業と似てる

日本人は「日本軍」を、「特攻」、「勇猛果敢」、「玉砕」、「零戦」、「沖縄戦」など、独立したワードを無秩序に繋げて偶像的に認知している、と私は思っています。
ですが、上述した事項は、そうしたイメージとはかけ離れたものであり、これまでメディアの振るいのなかで多くが排除されてきた部分なのではないでしょうか。

この辺の懸念は作者も示されています。
終章では『近年の「礼賛」と実際の「死の現場」』と題打ち、凄惨な死の現場を捨象するかのような日本(軍)礼賛に対して警鐘を鳴らしています。
確かに、上記のワードも含め、日本軍が内包した各要素は、いわば「劇的」の繰り返しであり、裏返せば第三者的にはロマンを感じる部分なのかもしれません。ですが、それはともすれば、劇的ではなかった死者の軽視にもつながりかねません。

確かに、戦時の実相を体系的かつ正確に把握するのは膨大で大変です。
ですが、こうした本を通じて、正しい歴史認識を学び、それを後世に繋げていくのは、我々高世代の責務であると感じます。

私が話を聞いている方も90歳を超えています。
語りたがらない方も当然います。
生の声をアーカイブするには、兎に角時間との勝負です。


(国家としての先見性のなさにも紙幅が割かれていますが、その辺りは『失敗の本質』と併せて読むと理解がすすみます。)

【「失敗の本質」を読んで】組織は全然成長しないよ。インパール作戦だよ。 - シコウノイッタン