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【書評】『凍りの掌 シベリア抑留記』おざわゆき~漫画の役割とは~

 

凍りの掌 シベリア抑留記(1) (BE・LOVEコミックス)

凍りの掌 シベリア抑留記(1) (BE・LOVEコミックス)

 

 以前、シベリア抑留を経験したおじいちゃんの動画を作りました(宣伝)。

【備忘録】「シベリア抑留を経験したおじいちゃんの記録映像を作った」ときの話 - シコウノイッタン

そんなこともあって、シベリア抑留に対してそこそこ関心を持っている最近なのですが、ようやく『凍りの掌』を読みました。

非常に感じ入るものがありました。

おじいちゃんの話を聞いていたので、おじいちゃんの話を絵で見ているような感覚になりました。

映像製作のとき、私たちのような若い世代も関心が持てるようなわかり易い作りにすることに苦心しました。
おじいちゃんが淡々と語る場面ばかりだと、視聴者は飽きてしまうので、数分置きに場面展開を入れたり、イメージ映像を入れたり……。

一方で『凍りの掌』は、ストレートに「絵」が物語を訴えてきます。
この「直接性」「引き込む力」は、漫画という媒体の凄さなんだと改めて気づきました。(もちろん、おざわ先生の力量に負うところも多いのですが)

『凍りの掌』は、おざわ先生のお父上の話ですが、かなり過酷な体験をされたようです。そうした話を、精細に、漫画という形で残された本書は、とても価値があると思います。本当に細かい体験まで、物語に盛り込まれています。
もちろん、読んでいて面白いことはいうまでもありません。

経験者はどんどんと高齢化し、少しずつ、直接話を聞ける機会が少なくなっています。失礼かもしれませんが、少しずつ、記憶もあやふやになってきます。

そうした意味で、いろいろ急がないといけないですね。
こういう会もあります。ご興味がある方はぜひ足をお運びください(宣伝)。

【雑記】「カイシャの評判」というサイトの疑わしさ〜話は半分に聞いておけ〜

転職サイトを覗くのが趣味です。

月曜日はエン転職、火曜日はマイナビ転職、水曜日はリクナビネクスト、木曜日はエン転職、金曜日はマイナビリクナビ

もっぱら見るだけですが、もちろん、「あわよくば」という気持ちがないわけでもありません。
ただどのサイトも第二新卒がメインの対象なのかな、という案件が多く、30半ばの私がもし本気で転職するなら、もっと別のサイトなり、エージェントサービスを使用すべきなのかもしれません。

20代で転職を3回した

ところで、私は転職を3回経験しています。
1回目の転職は、それこそ若気の至りでした。新卒で入った会社は別に悪い会社ではなかったのですが(小売なんで給料は安いですが)、そもそもちゃんと就職活動をせずに入った会社なので、やる気がありませんでした。
そこから本当にやりたかったこと(文章に携わる仕事)をやるのですが、折りからの出版不況で、会社が潰れたり(2回目)、クビを切られたり(3回目)、散々な目に遭いました。
もちろん、自分の力不足もあったのでしょうが、出版関係は新卒で大手版元に入らない限り、かなり厳しいものがあるということを身を以て学んだ次第です。

で、今はのうのうとホワイト企業で仕事をして、パブリック・リレーションズの面白さを知り、もっと突き詰めていけたらいいなぁと考えたりもしています。

まぁそんなこんなで定期の転職サイトウォッチングを続けています。

転職情報口コミサイトに疑心暗鬼

だいぶ前置きが長くなりました。

今日は便利な世の中なので、会社名をググると、転職情報口コミサイト(以下;口コミサイト)を通じて、すぐに内情の情報が手に入るわけですね。参考にされている方も多いのではないでしょうか。

さて、そうした口コミサイトの中に「カイシャの評判」というサイトがあります。

会社の評判、口コミ、年収から転職・就職情報まで分かる|カイシャの評判
通常、こうした口コミサイトは、有料会員になったり、こちらからも情報提供しない限り、情報の閲覧ができないというサイトが多いのですが、この「カイシャの評判」は太っ腹なことにすべて無料で見ることができます。

「あぁ、なんていい世の中になったもんだ……ノーコストのリスクヘッジだぜ」なんて思って私も参考にしていたんですが、最近、このサイトの企業の評価に疑義が生じてきました。
どうも評点が胡散臭い気がするのです。

労働環境はブラックでも評価は60点

というのは、以前勤めていた某編集プロダクションの評判を見ると、そこそこ悪辣な口コミが書いてあるにも関わらず、会社の評価は「60点」となっています。

皆さんは、60点と聞いて、どういう印象を持つでしょうか?
私は、「まぁまぁ」という印象を抱きます。

その会社は月残業100時間、月給22万円(額面)くらいだったんですけどね。。年収にすると300万円を切る水準です。

もちろん、業界的には珍しくないんですが、一般的に見てこの会社がとても60点には思えないわけです。

点数に現れない評価軸がきっとある

で、もう一度評価項目をよく見ると、写真の通り。


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労働で重視されるべく賃金だとか、労働時間だとか、そういうのは評価外で、やりがいだとか社風だとか、そうしたちょっと微妙(もちろん、それも大事なのですが)なニュアンスの評価項目ばかりなのですね。

だから前述のような会社でも60点が取れてしまいます(個人的には前述の会社は30点くらいなのですが……)。

「60点」と見せられると、「意外と悪くない」とガードを下がりますが、その「60点」はある意味、その会社の一側面に過ぎません。

社風が60点なのと、年収が270万円なのは切り離して論じられるべきではないと思うのです。


にも関わらず、これを会社の評価点数だと言わんかのごとく、大きく持ってくる「カイシャの評判」。この誤解を招きかねない表現に、私は一抹の胡散臭さを感じてしまいます。

やや繰り返しになりますが、本来的には、給与等を含んだ総評価をして初めて、その企業の評価点数になるとは思うのですが、この「カイシャの評判」ではそうした評点がなされていませんので、数字がかなり強く出ると実感しております。

ここからは推測に過ぎませんが、サイト運営をしているのは「エン転職」です。クライアン卜の会社をこき下ろす訳にはいきませんから、こうした曖昧な評価軸を持ってきてお茶を濁しているのかもしれません。

いずれにせよ、このサイトの評価は、話半分程度に参考にするのが良さそうです。「vorkers」など、会員登録をしなければならない口コミサイトのほうがまだ制度は高そうな気がします。

さぁ最後に「評判」という言葉を辞書で引いてみましょう。

ひょう‐ばん〔ヒヤウ‐〕【評判】[名・形動](スル)
1 世間の人が批評して是非を判定すること。また、その判定。「評判の高い作品」「評判を落とす」
2 世間でうわさをすること。また、そのうわさ。「評判が立つ」「人々がさまざまに評判する事件」
3 世間の関心の的になっていること。名高いこと。また、そのさま。「今年評判になった映画」「評判な(の)働き者」

 評判には「判定」という意味もありますが、「うわさ」という意味もあります。奇しくも、「カイシャの評判」というサイトは、その名前に「うわさ」という世俗化した言葉を宿しているわけです。
なかなかにアイロニーですね。

 

ただ、情報化社会というのも一長一短ですね。誰かつけたかも分からない評価が、自分の決断を縛る世の中になりました。
私が転職を繰り返した時代(約10年前)はこんなサイトはほとんど無かったと思うので、隔世の感があると同時に、企業側も人集めに苦労しそうな世の中になったでしょうね。

 

皆様も良い転職活動を。

 

 

【雑記】セクハラな人々2~狛江市長の迷記者会見~

www.youtube.com


見ました。
危機対応のモデルとして後学のために見ました。
結論をいうと、グズグズです。

アキレス腱さらしまくりの記者会見

高橋狛江市長は、マスコミの問いに対して、一応、考えながら発言していた印象を受けました。ところどころ、ピントはズレていましたが、原稿を読み上げるだけでは無かった点は良かったと思います。
ただ、そこが当然、泣き所となった感もあります。

特に、被害者とされる人物を「思い込みが強い」と評した点は、悪手でした。
自分の正当性を主張したいのは分かりますが、良い悪いのような対立軸、ましてや極めて主観的な表現を記者会見の場で持ち出すことはご法度だと思いました。
また、「かもしれない」などの表現が多く、「事実を隠している」という印象を逆に与えかねないような応答でした。

「レベル1、装備:ひのきのぼう

詰め将棋のように、だいぶいい所までは記者の追及も及んだのですが、最終的には「記憶にない」「…のような感じを抱かせたかもしれない」みたいな曖昧表現でかなり強引に逃げ切った感があります。

しかし、世論が後押ししたにせよ、高橋市長はなぜ「レベル1、装備:ひのきのぼう」でカメラの前に出てきたのか。今ひとつ解せません。
まぁ、その辺の無謀さが目立つ記者会見でしたね。っていうか、めっちゃ矛盾だらけでしたけど。。。

高橋市長は、これからもっと追い詰められていくのでしょう。
やっていないのであれば、「やっていない」とはっきり言えるでしょうが、飲み会の席での過剰なコミュニケーションは事実として認めており、どうにも歯切れが悪くなります。
そこを、高橋市長の「頓知(とんち)力」でどう切り抜けていくのかが、これからの見ものです。

でも大事なので強く言いたいのですが「とんち」は所詮「とんち」です

とんち
頓智・頓知】
機に応じて即座に(=頓)働く知恵。機知。

いつまで、行政(に属するもの)が、こんな場当たりのやりとりを続けるのでしょうか?
いつまで、我々はこんなやり取りを認めるのでしょうか。


これが地方自治のレベルに横行していることを考えると、恐ろしさを覚えると同時に、我々もまた試されているような気がします。


【仮説】セクハラな人々~酔眼は笑わない~

セクハラ問題が盛り上がっています。

強烈なインパクトを残したのは、やはりTOKIO山口メンバーだったり、財務省福田淳一(前)次官でしょうね。この方々に関しては食傷気味な方も多いでしょう。

個人的に動向が気になる二人

私が個人的にこれからどうかな、と思っているのは、狛江市長と、

www.tokyo-np.co.jp

みなかみ町ですね。

www.sankei.com

 まだ火種は燻っていると思います。


言葉遊びをいつまで認めるか

セクハラというのは恥ずべき行為です。
だが、その恥の感情の弊害か、「私はセクハラをしました!」とはっきり謝罪をしませんね。皆、奥歯に物が挟まったかのような言い回しをします。
特に、それが社会的に高い立場であればあるほど、恥を回避するように思います。

例えば「市政を混乱させたことをお詫びする」とか「軽率な行動でご迷惑をおかけした」とかでしょうか。

こうした言葉遊びを聞いていると、まるで謝罪に至るまでのすべての流れは通過儀礼のように思えます。本質を欠いており、非常に不快ですね。

ホットドッグプレスは中高生のバイブルだったけど


人は誰しも異性に対する欲望を持っています(今回はわかり易くするため「男女」の関係だけで書きます)。

ですが、この「欲望の飼いならし方」は高齢になればなるほど下手になる、というのが私の仮説です。言い換えると、異性との距離感の保ち方が下手になります(ボディタッチが増えたり、パーソナルな部分にまでズケズケ踏み込んだり)。

下手になる理由は、実際の戦場に出なくなったことだと思います。
若い人は欲望を巡って、文字通り、子孫の存続すらかけた「リアルバウト」を異性と行います
一方で、高齢者の欲望は、週刊誌などで学んだ思弁的で高度に純化した欲望です。
ある意味では、『ホットドッグプレス』などで学ぶ中学生の妄想に近く、先祖がえりをしていると考えると感慨深いものがありますが。

いずれにせよ、あの雑誌で得た知識がそんなに役に立たなかったことを考えると、中高年のそれが世間的にセクハラと見なされてしまうのも当然かもしれません。

まとめ

とりあえず女性に対して私が言いたいのは、「飲み会のおっさん(だけではなく男)には気をつけろ」だし、男性に言いたいのは「常に刀を研ぎ続けろ」です。

 


途中まで社会的な憤りを綴るつもりが段々と冗談めいてきてしまいました。
了。

【寸評】その2 『幻の動物王国 悪い奴ほど裏切らない』―現代の人間の消え方「狂ってるのはどっちだ?」―

【とんでもない映画を見てしまった】

『平成ジレンマ』に引き続き、これまたとんでもない映画である。
この映画は、千葉の某地域に住む、棄てられた動物たちをとにかく保護しまくる御仁のハナシである。
ここに綴る言葉は、映像の前ではすべて霞むものである。こんな駄文に時間を費やす暇があるならぜひ本編を見ていただきたい。

ただし、最初に注意喚起だけしておきたい。
まず映像はお世辞にも良くない。手ブレがひどい。
あと、スーパーのQ数が小さく、読みづらいことこの上ない。
加えてディレクターの「○○っすか? マジっすか?ウヒャヒャ」みたいな話し方が若干癇に障る。
その辺りは、全編通して少し気になったところ。

【ホンダさんの一面をご紹介しよう】

さて、幻の動物王国こと、「しおさいの里」を運営するホンダさんは奇怪な人物である。
言ってることもやっていることもメチャクチャなのだ。
棄てられた動物を保護しまくるのだが、そこはどう見てもゴミの山だ。ホンダさんは電気もなく、水道もなく、開け放したワゴン車の中で、犬猫とともにくらしている。
もう、なんというか絵面が凄すぎて、上記の気になる事柄なんて吹き飛んでしまう。

ホンダさんは実業家であり夢想家でもある。
東日本大震災で被災した土地を買い上げ、人を育てる寺を作りたいという。そこでは、飼育している犬が放し飼いになるそうだ。
「私ならできる」と断言する。

ホンダさんは著述家でもある。
保護した犬をまとめた写真集を出版予定である。
(どこの版元かと思ったら、やはり文芸社だった。つまるところ自主出版だ。)

ホンダさんの奇怪さはとまらない。
動物遺棄をなくすには、強い働きかけが必要だと主張する。
その方法が常軌を逸している。

国会の前で、保護した動物の首を順番に刎ねていく。
最後にホンダさんが腹を切り、その腸を首相に向かって投げつける。
そうでもしないと、世間は目覚めない。
「俺はやるよ」と。
そして、このハナシを劇中、二度も三度も繰り返す。

いやいや……

ホンダさんは興奮すると、同じハナシを繰り返す癖があるようだった。私は、若干認知症なのではないかと疑ってしまった。

ホンダさんは御年70を超えている。
しかし日常がサバイバルのようなものなので、病気一つしたことがない、と語る。
心身創建で、見回りにくる警察官とよく相撲をとるそうだ。
そして若い警察官を何メートルもぶん投げるそうだ。

いやいや……

【狂ってるのはどっちだ?byプラテネス

彼の口から語られる全ての話が虚々実々としている。
どこまでが本当で、どこまでが嘘なのかまったく分からない。
そう疑心暗鬼になる頃には、もうこの映画の術中に堕ちていると思っていだろう。

でもホンダさんは本当に狂ってるのだろうか?
動物を棄てる人間と、動物を保護する人間、どちらが狂っているのだろうか?
どちらが正しくて、どちらが間違っているのだろうか?
もし、動物の遺棄という事象が存在しなければ、ホンダさんの持つ鬱屈としたエネルギーはどこへ向かうのだろうか?

ホンダさんを巡る考察はどんどんと深みに堕ちていく。

 


【ここからはネタバレになるのでご注意ください】

 

ホンダさんは突然姿を消す。
心身創建なホンダさんは突然亡くなる。

劇的すぎて言葉にならなかった。

ホンダさんとともに動物たちも姿を消す。

狐につままれたかのような気持ちになる。

ゴミの山だった動物王国は、命の消えたゴミの山になった。


身寄りのないホンダさんの最後は分からないが、それを発見した近所の人が、届け出て、近くの寺に葬られたようだ。
王国の前には「ホンダさんは○○寺に葬られています。詳しくは○○市役所に尋ねてください」と張り紙があり、取材班が最後に役所に問い合わせをするシーンで映画は終わる。

役所は、ホンダさんのことをロクに把握しておらず、ヘラヘラとした応対が視聴者の怒りを煽る、なんとも心がザワザワする終わり方だ。

ただし、一応フォローをすると、上記の張り紙も近所の人が厚意で書いたもので、厳密にはその張り紙の内容は役所は把握していなかったのだろう。そういう意味ではちょっと意地悪だったかなとも思う。


さて〆ます。
第一に、単純に、とんでもない人を取材し、とんでもない映画が出来てしまったな、という驚嘆の感情を呼び起こす映画である。
そして、第二に、現代社会における人の「消え方」、「何が正しくて何が間違っているのか」を考えさせる映画であった。
これは見て損はないと思う。
とんでもない映画だった。

【寸評】『平成ジレンマ』ータブーを超えてみたけどもー

現代社会の「タブー」には、どこか蠱惑的な響きがある。禁じられた人間の本能への挑戦とでも言おうか。

タブー (taboo) とは、もともとは未開社会や古代の社会で観察された、何をしてはならない、何をすべきであるという決まり事で、個人や共同体における行動のありようを規制する広義の文化的規範である。(中略)などを通して社会を構成する個々人の道徳の基となっていることも多いが、社会秩序の維持のためとして時の為政者に作為的に利用される危うさも孕んでいる(検閲自主規制など)。(wikipediaより)

ルール、タブーは破りたくなる。はたまた、「破ったらどうなるのだろうか?」と夢想してしまうのは良くあることだ。ルールが人の欲動を抑える役割を果たしていることを考えると、タブーの境界を巡って、人の心が揺れ動くのは仕方がないことだと思う。

衝撃的だった、平成ジレンマという映画。

先日、あの戸塚ヨットスクール戸塚宏氏と、坂上忍が何かのバラエティ番組で議論したそうだ。戸塚氏は相変わらず、相変わらずだったようだ。

それがきっかけで、東海テレビが制作したドキュメンタリー『平成ジレンマ』を思い出した。確か、ポレポレ東中野で見たと思う。
あれは、なかなか強烈な映画だった。

カメラの前で繰り広げられる凄惨な体罰(及びそれに準じた行為)。
殴られる少年・少女。
取材の最中、身を投げた少女。
それらに面しても、張り付いたかのような微笑を崩さない戸塚氏。

映画は、特定のメッセージを加えず、フラットに制作されていたかのように思う。
見終わっての私の感想は「戸塚氏の主張も一部分からなくもない」だった。

戸塚氏の主張が分からなくもないもの

体罰には基本的に賛同できない。
ただし、人と人との向き合い方の中で、すべてがきれいごとで済まされるわけでもない。ほうぼう手をつくし、困り果てた親御が戸塚氏に子どもを預けているのは事実だ。

それらの現実に対し、戸塚氏は、体罰(少なからず劇中では「止めた」と言っているが)という現代のタブーを犯す形でコミットしていると取れる。
戸塚氏の微笑は「他に方法があるなら示してみろ!」といわんとしているかのようだ。
「マスコミ(世間)は体罰(戸塚氏)に対するバッシングを加えるばかりで、対案を示してこなかったではないか」と。
「私は実践をしてきた」と。

そうした「体罰に反対する我々もまた、明確な答えを持ち得ていない」という意味で、私は分からなくもないと思ったのだ。
もちろん、「とはいえ」という前置きが必要なのだが。

戸塚宏氏と教育者のジレンマ

戸塚氏の主張の根底には「誰も何もしないから、こんなことになっているのに、なぜ誰も分からないんだ」というものがある。
それと呼応するように、戸塚氏は劇中「本当はこんなこと(体罰)、誰もやりたくないよね」とも語っている。
これこそが、彼の持つ「ジレンマ」だ。少なからずこれは本音であって欲しい。(氏の言葉が全部ウソならば、ただのサイコパスだということなので……)
劇中、同様のジレンマが教育者の中にも拡がっていると見られる場面もあった。
平成の時代の「理想と現実」の隙間に、このジレンマが潜んでいるのだ。
そのもどかしさたるや。

タブーを超えた先に

この映画が教えてくれるのは、タブーの先に何か桃源郷のようなものがあるわけではなく、その先にある結果は相対的なものである、ということではないか。

もっと観念的に言えば、タブーとは「私」とそれを内包する「社会」の中に、確実にあって、しかし足を踏み入れてはいけない「禁猟区」のようなものである。
その線を「私という個人」が超える行為は、あくまで個人的体験―線的なもの―に留まり、面的な拡がりを持たない行為なのではないか。
逆説的に、もしその行為が面的な拡がりを見せるなら、それは社会の変革のときであろう。タブーがタブーでなくなる瞬間だ。

私には、戸塚氏は、体罰というジャンルのタブーの線を「またぐ」ことに魅せられ、タブーの本質を捉えることを放棄しているように思えた。

【書評】『哲学の最新キーワードを読む-「私」と社会をつなぐ知』小川仁志 –現代社会を取り巻く12のキーワード-

 

公共哲学とは何か? なぜ今、考えなくてはいけないのか?

読みました。
「私」と「社会」をいかにして繋ぐか、を考察することを「公共哲学」と言います(少なからず本書に於いてはこの定義で使われています)。
これまでの公共哲学というのは、比較的シンプルなものでした。

「私が社会を変える!」ではないのですが、少なからず、私という主体が社会に対してコミットすることで、公共哲学の実践がある程度出来ていたからです。

 ところが、近年のテクノロジー進化やグローバル化の影響で、公共哲学の実践はとても複雑化しました。特に事態を複雑にしているのが、本書で挙げられる以下4つの多項知(概念)です。

 ①感情の知(ポピュリズム、再魔術化、アートパワー)

②モノの知(思弁的実在論OOO(トリプルオー)、新しい唯物論

③テクノロジーの知(ポスト・シンギュラリティ、フィルターバブル、超監視社会)

④共同性の知(ニュー・プラグマティズム、シェアリングエコノミー、効果的な利他主義

 これらの多項知は、(場合によっては「課題」、「キーワード」と読み替えた方が分かりやすいかもしれません)いずれも近年の社会を巡る潮流の中で顕在化してきた知です。

現在、これらの多項知が、「私」と「社会」の「間」に潜り込んできて、勢力を広げつつあることが、公共哲学の実践を複雑化させています

 言い方を変えれば、これらの知は、現代社会の一つの障壁であり、これらをうまく扱えないと、公共哲学の実践ができづらくなってきているのです(イメージしやすいところでいえば、インターネットなどは、私たちの生活の一部となっています。もはやネット(=超監視社会)を抜きにして社会を正しく捉えることの方が困難だと思います)。

 本書の趣旨は、これらの解決のためのヒントを探っていこう、というものです。

 

多項知に影響され始めている社会

 では、これらの多項知をどのように飼いならせば、公共哲学を実践していけるのか?

本書の例にもあった、感情の知における「再魔術化」の問題を挙げてみます。

 近年のイスラム原理主義者の台頭(=再魔術化)を見ていると、脱宗教=理性(近代)の時代と逆行する現象が起きているように思えます。この背景には、経済の格差だとかいろいろと蠢いているのですが、いずれにせよ2001年以降、宗教的思想が他者の安全を脅かす事態となる機会が増えました。

こうした現象を指して「再魔術化」とするのですが、これに対して世界は真っ当な解決策を見出すことができていません。

本書で示される解決策はざっくり言うと、非宗教的市民と、宗教的市民の対話です。これらによって「寛容な」社会を創ろうと主張します。

 
また「ポスト・シンギュラリティ」においては、AIという非理性と向き合うには、開発から降りる、という割と大胆な提案がされます。
確かに、私のような一般人からすると、AIの開発は、なんとなく「どこまで」という目標設定が抜け落ち、純粋な「技術の向上」に憑りつかれているような印象を受けます。それが過度になると(本書中にもありますが)、「AIはどこまで行っても、指数関数的な目標を追求するに過ぎ」ず、目的達成のためには、世界すら滅ぼしかねない、という危険性を孕むのかもしれません。

 

これからは、もう一段アップグレードした理性の時代へ

 本書で挙げられている12の多項知は、いずれも非理性的な知です(もちろん、背後には人間が居る場合もあるのですが)。このように、非理性的なものが存在感を発揮してくる現代の潮流で、いかにしてその「非理性」を「理性」で以て飼いならすか?ということが、今、求められているようです。

 そして、本書で提案される「飼いならす=アップグレード」の方法は、「対話」だとか、「ルール整備」だとか、想像以上に普通なのですが、逆を言えば、社会を巡る事象に裏技的なものはなく、人間という主体はあくまで泥臭く行かねばならぬ、と感じさせられました。哲学は、やはり考え続けることの中に答えがあるのでしょう。

 さて、本書の提案をどう感じるかはともかくとして、面白いキーワードがたくさんあり、興味深い本でした。
紙幅のせいで説明しきれていない部分も少なくないと思いますし、どうも言葉が足りないなぁと感じる部分もあったのですが、さっと現代社会を巡る思想の地殻変動をおさらいするのには良い本だと思います。

 

そして、その中で、気になった言葉を個々人が探っていくことが、本書でいう、「公共哲学」のスタートラインになるのだと思います。

 

ちょっと綺麗に〆ようとしましたが、感想がとっ散らかってしまいました。