【「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読んで】⇐多分、見たであろう。
アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))
- 作者: フィリップ・K・ディック,カバーデザイン:土井宏明(ポジトロン),浅倉久志
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1977/03/01
- メディア: 文庫
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映画「ブレードランナー」の原作であり、古典的SFとしても有名な本作。
本作に関する考察は、先人が数多行ってきたであろうから、ここではあまり掘り下げず、淡々と気づきを記す。
本作の文章としての良さは、素っ気無い文体とリズミカルな物語展開にある。過剰なSF描写、過剰な心理描写等々、ややもすると銀座のママの頭みたいにモリモリになって「ページが進まん!」みたいなことは全くない。
描写も分かりやすく、というか表現に抑制が効きすぎて、むしろアンドロイドが書いたんじゃないかと思うくらいだ。
物語の途上で、主人公リック・デッカードは、「人間とは何か?」という哲学を始めてしまい、それそのものが読者に投げかけられる主題でもある。かなりストレートに投げかけられる。
最終的にリックは、その世界の主要な宗教の宗主であるマーサーと同一化を果たすのだが、同一化は二元論で切り分けられる境界に対するシニカルな隠喩であろうか。
ともあれ、深いテーマを淡々と読者に染み込ませる展開、作風は面白い。
映画では、演出意図なのか、アンドロイドを幾分好戦的に描いていたが、本作では淡々と狩りが進んでいく。
主人公の目的は狩りだが、作者の目的は狩るものと狩られるものの差異の曖昧さにあるので、戦闘シーンが控えめであればあるほど、その目論見は成功している。
もちろんガチのSF好きには物足りない部分とか、設定が曖昧だったり矛盾している部分もあるのだろうが、こうしたメッセージの伝え方はありだと思う。
さて、表題の通り、アンドロイドは電気羊の夢を見たのか?
私の答えはイエスだ。根拠はない。
そもそもこの問いこそ、(人間以外は夢を見ないという前提に立っている時点で)作品の主訴と矛盾してるのである。これは人間の尺度で語られる問いだ。
正確には「見るかどうかは分からないけど、その問いに意味があるのか?」
が表題の問いに対する答えのように思う。
ブレードランナーファイナルカット
言わずと知れた映画。いま続編が公開されようとしている。
私は原作にあたる「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」をいま読んでいて、いたく面白いので、映画も見てみた。
そもそもこの一連の作品を手に取ったのは、ここ最近耽っている現代思想の影響が強い。
アンドロイドと人間を隔てるものとは何か。それは現実世界を生きる人間とその他の生物の対比でもある。
なぜ我々は他の生物を駆逐し、自然を破壊し、生命を謳歌していいのか。
我々はこうした問いに対して、明快な答えを出せていないように思う。
映画「ブレードランナー」はこうした迷いを助長する映画として作られている。
一応、アンドロイド対人間という構図はあるが、見ているもの全てが、それを善悪という二項に当てはめて見ることができないだろう。故に主人公も応援できないし、レプリカントも応援できない。モヤモヤする。
でもそうだ。我々が持っている境界は極めて曖昧なのだ。それを社会構造の中で、多数者の論理を会得し振りかざしているに過ぎない。そうした気づきを与えてくれる。
いやはや、日本をフューチャーしたスチームパンク的な世界観から、この作品はカルト映画扱いされることもあるが、深いテーマの作品でした。
【「ミクロ経済学入門の入門」を読んで】 ミクロ経済学はいかに我々の生活に結びついているか
経済学に興味はあれど、マクロ・ミクロ、ことあるごとに挫折してきた私。
やはり、あの計算式と曲線がどうにも理解できない。
この書籍は、かなり簡潔に書かれていそうだったので購入してみた。
内容はわかりやすい。非常にわかりやすい。
この本の趣旨は、私のような経済学落伍者の救済にある。
落ちこぼれにも、ミクロ経済学に興味を持ってもらうための、まさに入門の入門書だ。
ただし入門の入門である以上、これを読んでもミクロ経済総体は分からない。
せいぜい様々な用語の意味が分かってくる程度だ。
ミクロ経済とはなんぞやを本当に知りたければ、この本で学んだ基礎を以って、本当の学問に向きあう必要があるのよね、やっぱり。
入門書としておきながら、難解な書物もたくさんある。
著者はいかに情報を切り捨てるか、執筆にあたって苦心されたことだろう。
でも、そうしたアプローチは、簡潔な文章、少ないページ数と相まって成功しているように思う。
惜しむらくは、構成のいびつさ。
ほとんどが、
「とっつきやすい導入(起)」⇛「それを題材にミクロ経済学の仕組み解説(承・転)」
という構成になっていて、「結」がない印象を受ける。
これが我々の生活にどう結びついているのか、もっと分かると素人として嬉しいなぁと思った。が、これは上記のように削ぎに削ぎ落としている以上高望みなのかもしれない。
しかし、「最適解」「ベルトラン均衡」「ナッシュ均衡」「消費者余剰」「生産者余剰」「死荷重」等々、面白い知識も多かった。
これらの言葉は、思考をしていく上での概念的なものとして、役立ちそうなイメージ。
例えば、「職場において死荷重が発生しないようにする労働力の適切な分配とは」みたいな。
いやいや、適切な分配でいいじゃん。
【一読したあとはリリース】
SHINCHO高座「矢来町土曜早朝寄席」出演:立川笑二
志ん朝も住んでいた矢来町。
東京に10年以上住んでいるのに、神楽坂には行ったことがない私。
早朝寄席があるというので、勇気を出して行ってみた。
神楽坂は素敵なまちだった。
時間と人と、景観がいろいろ調和して、とても良い空気を持つまち。
そして、落語とまちの蜜月を感じるまち。
なんて素敵なまちだ!
さて本題。
矢来町土曜早朝寄席は、新潮講座神楽坂教室の上で行われる寄席という名の二つ目さんの独演会。この日は立川笑二さん。
朝10時から、たっぷり三席。わずか1000円で聞けるというのは嬉しい限り。
演目は
・転失気
・天狗裁き
・景清
笑二さんの高座は安定感がある。
ブラックな笑いは師匠ゆずり。現代的な要素も交えながらしっかり古典。
いつも聞いていてしっくり来る(個人的な好み)。
景清は、先日、立川談笑一門会でも披露していた。
そのとき、なんか物凄い鳥肌が立つシーンがあったのだけど、どこだっけ。
とか思い出しながら聞いていた。
コボちゃんと落語と美味しいご飯の町、神楽坂。
早朝寄席にもまた必ず行こう。
久しぶりに落語の話。
【「ウンコな議論」を読んで】
- 作者: ハリー・G.フランクファート,Harry G. Frankfurt,山形浩生
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2016/11/09
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「On Bullshit」がどうしてこんなタイトルになったのかは理解が及びませんが、この本を今読み進めています。
読み進めたきっかけは、フランクファー卜が格差について語った言葉との出会いです。フランクファー卜曰く、「格差が問題なのではなく、十分行き渡っていないのが問題である。」
フランクファー卜は、昨今幅を利かす格差論に、この言葉を以って対抗しました。私もその通りだと思っています。
先日、山手線でセレブ感のあるご婦人たちが美味しい(のかよくわからないけど)ワインについて大きな声で語っていた。私達は金持ちです、という意思表示が言外にもありありと伝わってきた。
その横で、こう言っちゃなんだが、いかにも金は持ってなさそうな、野球帽を被って発泡酒を飲んでるおっちゃん二人組が、「今日の麻雀は楽しかったねー」みたいなことを話している。
両者の経済的格差は歴然だが、幸せの総量は変わらないように見えた。
両者には行き渡っている。
行き渡っていることは、金銭の格差を超越していく。
これはコミュニティの関係性に於いても往々にしてそうで、個の、自由の時代だからこそ、コミュニティが崩壊し、行き渡らなくなった人が増えた。そうした結果、幸せを測る単位として、金銭的な格差にフォーカスするようになった。
そうした側面もあるように思う。
もちろん、餓死寸前の人々が多数の途上国もあるから、このことを一概に語ることは難しいけれども、先進国に於いては結構当てはまるんじゃないかと思っている。
お酒のせいか、今日は一段とひどい内容で、すみません。
ビル・ゲイツがビッグヒストリープロジェクトを推進する理由【サピエンス全史を読んで】
先日、広島大学の長沼毅教授のビッグヒストリーに関する講演を聞く機会があり、非常に意義深い話を聞くことが出来ました。
ビッグヒストリー われわれはどこから来て、どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史
- 作者: デヴィッド・クリスチャン,シンシア・ストークス・ブラウン,クレイグ・ベンジャミン,長沼毅,石井克弥,竹田純子,中川泉
- 出版社/メーカー: 明石書店
- 発売日: 2016/11/13
- メディア: 大型本
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ビッグヒストリープロジェクトは、統合的な歴史学として認知が進んできていますが、その推進に、慈善活動家であるビル・ゲイツが全面的に関わっています。
ゲイツは新興国などにもネット環境などを整備し、どこの国でも、どんな環境でも、多用な人々が、このビッグヒストリーを学ぶ機会を提供しようとしているそうです。
学問になぜ、ゲイツは巨額の私費を投じるのか?
それは、シンギュラリティ、バイオテクノロジー等々、我々の倫理観や価値観を今後根底から覆すであろう概念に、人類全体の知を結集して立ち向かおうとしているからだそうです。
この話を聞いて、私は本当にゾクゾクしました。
我々の意思を飛び越えて進む技術領域の躍進と、人類知の対立による総力戦。こんなものを既に想定しているゲイツの洞察もそうですし、新しい歴史の胎動を私はおぼろげに感じ取ったのでした。
で、長沼教授も講演の中でちらっと例に挙げたビッグヒストリー関連本、「サピエンス全史」を手にとってみました。
内容としては、歴史の本、というよりも哲学的な要素を多分に含んでいる印象です。
人類が類まれなる栄華を掴んだのは、その想像力や思考の幅広さであること。そしてその過程で切り捨ててきたもの(人間のせいで絶滅した生物や、過去の残虐な行い)を、巨視的な視点で提示してくれます。
我々の幸せは、ホルモンの働きであると喝破したり、ある意味構造主義的なアプローチも含みつつ、本書では我々人類の本当の姿を紐解いていきます。
そして、下巻の最後、こここそが本書の本丸で、「超ホモサピエンス」について触れています。
今後、技術革新が進むなか、クローン等の生命倫理、AIとの共存など、新しい価値観がどんどん突きつけられていきます。それらが進みきった先の我々の姿は本当に「ホモサピエンス」と言えるのか?
技術がすさまじいスピードで進化していくなかで、我々の価値観・概念の醸成はあまりにも拙速です。何をしたいのか、何に向かって進んでいるのかもわからない人類に、一方的にAIとの共生や果ては電脳などの問題が持ち込まれてくるわけです。
正直恐ろしい話です。
著者は最後に、そうした問題に対して警鐘を鳴らします。
少しだけ引用したいと思います。
唯一私たちに試みられるのは、科学が進もうとしている方向に影響を与えることだ。(中略) 私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。
私たちは、絶大な力を持った、最早、神と呼べる存在に近づきつつあります。一方で、その目的も進む方向もよく理解せず、他の動物を駆逐し、環境を破壊し、人間至上主義をひた進んでいます。
作者いわく「自分が何を望んでいるか分からない、不満で無責任な神々ほど危険なものはないではないか」と。
サピエンス全史というタイトルは、
(とりあえず今日まで分かっている)サピエンス全史ではなく、サピエンスの終焉を意味しています。
我々はサピエンスを通り越し「何か別の生き物」になる転換点に、今差し掛かろうとしているのかもしれません。
っていう内容は割りと
この本とだだかぶりでした。
両方とも面白いですよ。
長くなりました。以上です。
ホワイト企業もブラック企業も存在しない
今週のお題「自己紹介」
私はむかーし、雑誌のライターをやっていた。
とは言っても、プロダクションに所属する雇われライターだ。要はリーマンだ。
働きやすいプロダクション(ホワイトプロダクション)もあったが、電通も真っ青の残業と徹夜で、本当に死のうと思うくらい追い込まれるプロダクション(ブラックプロダクション)もあった。
その時、いつも「ホワイトプロダクションは良かったなぁ。。。」と思い出したものだ。
ホワイトプロダクションは倒産したため、辞めざるを得なかったのだが、それでも働いてる中では、やれ給料が安いだ、待遇が悪いだ、不満を止めどなく放言したものだった。そこが、所謂「ホワイト企業」と気づかず。
結局ブラックだ、ホワイトだ、というのは相対的なものでしかない。
物差しをどこに当てるか、の問題だ。
私が後日認識するに至ったホワイトプロダクションも、本当の意味でホワイトだったかなど分からない。
300万円の年収はホワイトなのか?と。
(ちなみにブラックプロダクションは200万円弱だった。世のライターの多くはかなり給料が安い。劇団員みたいなところがあって、なりたい人など履いて捨てるほどいるからだろう。)
さて、そんな私は、今、公務員をしている。
私の眼鏡を通すと、公務員はホワイト企業だ。ただし、その内に、漆黒という言葉では表現もできないほどの黒い闇が存在していることも感じている。
その黒と対峙するのは結構覚悟が要求される。
やっぱり企業カラーなんて分からない。