シコウノイッタン

読んだ本や、映画の話など、偏見だらけの話をつらつらと

【寸評】その2 『幻の動物王国 悪い奴ほど裏切らない』―現代の人間の消え方「狂ってるのはどっちだ?」―

【とんでもない映画を見てしまった】

『平成ジレンマ』に引き続き、これまたとんでもない映画である。
この映画は、千葉の某地域に住む、棄てられた動物たちをとにかく保護しまくる御仁のハナシである。
ここに綴る言葉は、映像の前ではすべて霞むものである。こんな駄文に時間を費やす暇があるならぜひ本編を見ていただきたい。

ただし、最初に注意喚起だけしておきたい。
まず映像はお世辞にも良くない。手ブレがひどい。
あと、スーパーのQ数が小さく、読みづらいことこの上ない。
加えてディレクターの「○○っすか? マジっすか?ウヒャヒャ」みたいな話し方が若干癇に障る。
その辺りは、全編通して少し気になったところ。

【ホンダさんの一面をご紹介しよう】

さて、幻の動物王国こと、「しおさいの里」を運営するホンダさんは奇怪な人物である。
言ってることもやっていることもメチャクチャなのだ。
棄てられた動物を保護しまくるのだが、そこはどう見てもゴミの山だ。ホンダさんは電気もなく、水道もなく、開け放したワゴン車の中で、犬猫とともにくらしている。
もう、なんというか絵面が凄すぎて、上記の気になる事柄なんて吹き飛んでしまう。

ホンダさんは実業家であり夢想家でもある。
東日本大震災で被災した土地を買い上げ、人を育てる寺を作りたいという。そこでは、飼育している犬が放し飼いになるそうだ。
「私ならできる」と断言する。

ホンダさんは著述家でもある。
保護した犬をまとめた写真集を出版予定である。
(どこの版元かと思ったら、やはり文芸社だった。つまるところ自主出版だ。)

ホンダさんの奇怪さはとまらない。
動物遺棄をなくすには、強い働きかけが必要だと主張する。
その方法が常軌を逸している。

国会の前で、保護した動物の首を順番に刎ねていく。
最後にホンダさんが腹を切り、その腸を首相に向かって投げつける。
そうでもしないと、世間は目覚めない。
「俺はやるよ」と。
そして、このハナシを劇中、二度も三度も繰り返す。

いやいや……

ホンダさんは興奮すると、同じハナシを繰り返す癖があるようだった。私は、若干認知症なのではないかと疑ってしまった。

ホンダさんは御年70を超えている。
しかし日常がサバイバルのようなものなので、病気一つしたことがない、と語る。
心身創建で、見回りにくる警察官とよく相撲をとるそうだ。
そして若い警察官を何メートルもぶん投げるそうだ。

いやいや……

【狂ってるのはどっちだ?byプラテネス

彼の口から語られる全ての話が虚々実々としている。
どこまでが本当で、どこまでが嘘なのかまったく分からない。
そう疑心暗鬼になる頃には、もうこの映画の術中に堕ちていると思っていだろう。

でもホンダさんは本当に狂ってるのだろうか?
動物を棄てる人間と、動物を保護する人間、どちらが狂っているのだろうか?
どちらが正しくて、どちらが間違っているのだろうか?
もし、動物の遺棄という事象が存在しなければ、ホンダさんの持つ鬱屈としたエネルギーはどこへ向かうのだろうか?

ホンダさんを巡る考察はどんどんと深みに堕ちていく。

 


【ここからはネタバレになるのでご注意ください】

 

ホンダさんは突然姿を消す。
心身創建なホンダさんは突然亡くなる。

劇的すぎて言葉にならなかった。

ホンダさんとともに動物たちも姿を消す。

狐につままれたかのような気持ちになる。

ゴミの山だった動物王国は、命の消えたゴミの山になった。


身寄りのないホンダさんの最後は分からないが、それを発見した近所の人が、届け出て、近くの寺に葬られたようだ。
王国の前には「ホンダさんは○○寺に葬られています。詳しくは○○市役所に尋ねてください」と張り紙があり、取材班が最後に役所に問い合わせをするシーンで映画は終わる。

役所は、ホンダさんのことをロクに把握しておらず、ヘラヘラとした応対が視聴者の怒りを煽る、なんとも心がザワザワする終わり方だ。

ただし、一応フォローをすると、上記の張り紙も近所の人が厚意で書いたもので、厳密にはその張り紙の内容は役所は把握していなかったのだろう。そういう意味ではちょっと意地悪だったかなとも思う。


さて〆ます。
第一に、単純に、とんでもない人を取材し、とんでもない映画が出来てしまったな、という驚嘆の感情を呼び起こす映画である。
そして、第二に、現代社会における人の「消え方」、「何が正しくて何が間違っているのか」を考えさせる映画であった。
これは見て損はないと思う。
とんでもない映画だった。

【寸評】『平成ジレンマ』ータブーを超えてみたけどもー

現代社会の「タブー」には、どこか蠱惑的な響きがある。禁じられた人間の本能への挑戦とでも言おうか。

タブー (taboo) とは、もともとは未開社会や古代の社会で観察された、何をしてはならない、何をすべきであるという決まり事で、個人や共同体における行動のありようを規制する広義の文化的規範である。(中略)などを通して社会を構成する個々人の道徳の基となっていることも多いが、社会秩序の維持のためとして時の為政者に作為的に利用される危うさも孕んでいる(検閲自主規制など)。(wikipediaより)

ルール、タブーは破りたくなる。はたまた、「破ったらどうなるのだろうか?」と夢想してしまうのは良くあることだ。ルールが人の欲動を抑える役割を果たしていることを考えると、タブーの境界を巡って、人の心が揺れ動くのは仕方がないことだと思う。

衝撃的だった、平成ジレンマという映画。

先日、あの戸塚ヨットスクール戸塚宏氏と、坂上忍が何かのバラエティ番組で議論したそうだ。戸塚氏は相変わらず、相変わらずだったようだ。

それがきっかけで、東海テレビが制作したドキュメンタリー『平成ジレンマ』を思い出した。確か、ポレポレ東中野で見たと思う。
あれは、なかなか強烈な映画だった。

カメラの前で繰り広げられる凄惨な体罰(及びそれに準じた行為)。
殴られる少年・少女。
取材の最中、身を投げた少女。
それらに面しても、張り付いたかのような微笑を崩さない戸塚氏。

映画は、特定のメッセージを加えず、フラットに制作されていたかのように思う。
見終わっての私の感想は「戸塚氏の主張も一部分からなくもない」だった。

戸塚氏の主張が分からなくもないもの

体罰には基本的に賛同できない。
ただし、人と人との向き合い方の中で、すべてがきれいごとで済まされるわけでもない。ほうぼう手をつくし、困り果てた親御が戸塚氏に子どもを預けているのは事実だ。

それらの現実に対し、戸塚氏は、体罰(少なからず劇中では「止めた」と言っているが)という現代のタブーを犯す形でコミットしていると取れる。
戸塚氏の微笑は「他に方法があるなら示してみろ!」といわんとしているかのようだ。
「マスコミ(世間)は体罰(戸塚氏)に対するバッシングを加えるばかりで、対案を示してこなかったではないか」と。
「私は実践をしてきた」と。

そうした「体罰に反対する我々もまた、明確な答えを持ち得ていない」という意味で、私は分からなくもないと思ったのだ。
もちろん、「とはいえ」という前置きが必要なのだが。

戸塚宏氏と教育者のジレンマ

戸塚氏の主張の根底には「誰も何もしないから、こんなことになっているのに、なぜ誰も分からないんだ」というものがある。
それと呼応するように、戸塚氏は劇中「本当はこんなこと(体罰)、誰もやりたくないよね」とも語っている。
これこそが、彼の持つ「ジレンマ」だ。少なからずこれは本音であって欲しい。(氏の言葉が全部ウソならば、ただのサイコパスだということなので……)
劇中、同様のジレンマが教育者の中にも拡がっていると見られる場面もあった。
平成の時代の「理想と現実」の隙間に、このジレンマが潜んでいるのだ。
そのもどかしさたるや。

タブーを超えた先に

この映画が教えてくれるのは、タブーの先に何か桃源郷のようなものがあるわけではなく、その先にある結果は相対的なものである、ということではないか。

もっと観念的に言えば、タブーとは「私」とそれを内包する「社会」の中に、確実にあって、しかし足を踏み入れてはいけない「禁猟区」のようなものである。
その線を「私という個人」が超える行為は、あくまで個人的体験―線的なもの―に留まり、面的な拡がりを持たない行為なのではないか。
逆説的に、もしその行為が面的な拡がりを見せるなら、それは社会の変革のときであろう。タブーがタブーでなくなる瞬間だ。

私には、戸塚氏は、体罰というジャンルのタブーの線を「またぐ」ことに魅せられ、タブーの本質を捉えることを放棄しているように思えた。

【書評】『哲学の最新キーワードを読む-「私」と社会をつなぐ知』小川仁志 –現代社会を取り巻く12のキーワード-

 

公共哲学とは何か? なぜ今、考えなくてはいけないのか?

読みました。
「私」と「社会」をいかにして繋ぐか、を考察することを「公共哲学」と言います(少なからず本書に於いてはこの定義で使われています)。
これまでの公共哲学というのは、比較的シンプルなものでした。

「私が社会を変える!」ではないのですが、少なからず、私という主体が社会に対してコミットすることで、公共哲学の実践がある程度出来ていたからです。

 ところが、近年のテクノロジー進化やグローバル化の影響で、公共哲学の実践はとても複雑化しました。特に事態を複雑にしているのが、本書で挙げられる以下4つの多項知(概念)です。

 ①感情の知(ポピュリズム、再魔術化、アートパワー)

②モノの知(思弁的実在論OOO(トリプルオー)、新しい唯物論

③テクノロジーの知(ポスト・シンギュラリティ、フィルターバブル、超監視社会)

④共同性の知(ニュー・プラグマティズム、シェアリングエコノミー、効果的な利他主義

 これらの多項知は、(場合によっては「課題」、「キーワード」と読み替えた方が分かりやすいかもしれません)いずれも近年の社会を巡る潮流の中で顕在化してきた知です。

現在、これらの多項知が、「私」と「社会」の「間」に潜り込んできて、勢力を広げつつあることが、公共哲学の実践を複雑化させています

 言い方を変えれば、これらの知は、現代社会の一つの障壁であり、これらをうまく扱えないと、公共哲学の実践ができづらくなってきているのです(イメージしやすいところでいえば、インターネットなどは、私たちの生活の一部となっています。もはやネット(=超監視社会)を抜きにして社会を正しく捉えることの方が困難だと思います)。

 本書の趣旨は、これらの解決のためのヒントを探っていこう、というものです。

 

多項知に影響され始めている社会

 では、これらの多項知をどのように飼いならせば、公共哲学を実践していけるのか?

本書の例にもあった、感情の知における「再魔術化」の問題を挙げてみます。

 近年のイスラム原理主義者の台頭(=再魔術化)を見ていると、脱宗教=理性(近代)の時代と逆行する現象が起きているように思えます。この背景には、経済の格差だとかいろいろと蠢いているのですが、いずれにせよ2001年以降、宗教的思想が他者の安全を脅かす事態となる機会が増えました。

こうした現象を指して「再魔術化」とするのですが、これに対して世界は真っ当な解決策を見出すことができていません。

本書で示される解決策はざっくり言うと、非宗教的市民と、宗教的市民の対話です。これらによって「寛容な」社会を創ろうと主張します。

 
また「ポスト・シンギュラリティ」においては、AIという非理性と向き合うには、開発から降りる、という割と大胆な提案がされます。
確かに、私のような一般人からすると、AIの開発は、なんとなく「どこまで」という目標設定が抜け落ち、純粋な「技術の向上」に憑りつかれているような印象を受けます。それが過度になると(本書中にもありますが)、「AIはどこまで行っても、指数関数的な目標を追求するに過ぎ」ず、目的達成のためには、世界すら滅ぼしかねない、という危険性を孕むのかもしれません。

 

これからは、もう一段アップグレードした理性の時代へ

 本書で挙げられている12の多項知は、いずれも非理性的な知です(もちろん、背後には人間が居る場合もあるのですが)。このように、非理性的なものが存在感を発揮してくる現代の潮流で、いかにしてその「非理性」を「理性」で以て飼いならすか?ということが、今、求められているようです。

 そして、本書で提案される「飼いならす=アップグレード」の方法は、「対話」だとか、「ルール整備」だとか、想像以上に普通なのですが、逆を言えば、社会を巡る事象に裏技的なものはなく、人間という主体はあくまで泥臭く行かねばならぬ、と感じさせられました。哲学は、やはり考え続けることの中に答えがあるのでしょう。

 さて、本書の提案をどう感じるかはともかくとして、面白いキーワードがたくさんあり、興味深い本でした。
紙幅のせいで説明しきれていない部分も少なくないと思いますし、どうも言葉が足りないなぁと感じる部分もあったのですが、さっと現代社会を巡る思想の地殻変動をおさらいするのには良い本だと思います。

 

そして、その中で、気になった言葉を個々人が探っていくことが、本書でいう、「公共哲学」のスタートラインになるのだと思います。

 

ちょっと綺麗に〆ようとしましたが、感想がとっ散らかってしまいました。

【書評】『世界神話学入門』後藤明~どうして世界の神話は似てくるのか?~

世界神話学入門 (講談社現代新書)

世界神話学入門 (講談社現代新書)

 

  読みました。

 

世界各地に散らばる神話の異聞を比較していくと、さまざまな共通項が浮かびあがります。時代も場所も違うのに物語が似る理由は、人間の思考が似通ったものである、という理由のほかに、「神話が伝播した」、という理由が考えられます。

かつてアフリカで生まれた人類は、各大陸へ少しずつ移動しました。そうした道筋と、神話の分布は、軌を一にするのです。
本書は、世界各地の神話を引き合いに、そうした人類の移動と、神話の変化の過程を見ていく本です。「神話学」と名がついているものの、広義には人類学、歴史学を学ぶ本だと言えます。

 

冒頭80頁くらいは神話の要素はほとんどありません。人類の遺伝子的の話や、大陸移動についての説明が行われます。筏とか、カヌーとか、それを可能にした道具とか壁画とか。

一応書いておくのですが、この冒頭を含め、本全体に「神話」というイメージが発するファンタジー感はほぼ無いことには注意が必要です。(表紙もなんとなくファンタジー要素が出ていますし。私は、むしろファンタジー要素が読みたくて、(誤解して)買いました。結果的に人類学も好きなので面白く読めたのですが)

さて、80頁以降、やっと、神話の具体的な話が出てきます。


世界の神話は「ゴンドワナ型神話」と「ローラシア型神話」に大別される


神話学では、神話は2種類に大別されます。ゴンドワナ型神話」と「ローラシア型神話」です。


前者「ゴンドワナ型神話」は、いうなれば、人類史における最初期の神話です。話に脈絡がなかったり、現代の常識では測れない設定(例えば、棒で空に居る神様を突っついたから、空は今みたいに高くなった、みたいな)の話がほとんどです。

あと、一つ一つの神話が独立峰みたいなもので、それぞれの神話にはつながりがありません。従って、『こち亀』の最終コマで、部長が両さんに対して滅茶苦茶キレているのに、翌週のジャンプでは何事もなかったかのように物語が始まる、という矛盾も、ゴンドワナ型神話では当たり前のように起こります。

こうした特徴を持つゴンドワナ型神話ですが、一番注目すべきところは、これら神話において「人間は自然ととも在る」という価値観がはっきりと反映されている点でしょう。

ゴンドワナ型神話は「人間」が「人間」を獲得する前の話です。人間は、世界を成す構築物の一つでしかなかったことが、ゴンドワナ型神話では強調されます(具体的な事例は本を読んでください)。

自然とともに生き、自然とともに死ぬ、というメッセージを持つゴンドワナ型神話は、物事が複雑に絡まり合い、答えの見えなくなった現代において、ある意味「洗練された普遍性」を伝えてくれます。著者は、ゴンドワナ型神話のここに大きな価値を見出しているよです(後述)。


一方、ローラシア型神話は、私たちが良く知る「ギリシャ神話」だとか「ケルト神話」だとか、そうした類の神話です。
こちらは、神話としてのストーリーがしっかり作られ、我々にも馴染みやすい話です。その馴染みやすさが、現代にまで神話が語り継がれている理由でしょう。

 

ローラシア型神話の構造の特徴としては、
①始めに神によって世界が作られ(世界の創生)

②神によって人間がつくられる(人間の誕生)

③人間が堕落し、神が起こる(天変地異)

④世界の終り

のような、時間軸を意識した話が多いことです。


前者と後者を比べると、複雑に絡まってくる物語をきちんと体系化し、整理するあたりに、人類の頭脳の進化を見ることができると言えますが、大事な点は、ローラシア型神話」は物語を通して「私たちとは何か?」という哲学的なメッセージ・問いを提示していることにあります

上記の構造を見ても明らかなように「我々はどこから来て、どのように生き、どこへ行くのか?」という、ゴンドワナ型神話に見られない人間そのものに対する洞察が含まれています。そして、それを物語として伝えることで、(時に権力を肯定したり、人間を聖と俗に分けたり)、人間に対する戒めや訓示を行います。

私見ですが、ローラシア型神話は、人間を戒めるメッセージを発し、制御装置としての機能を果たしている側面が強いように感じます。

 

神話を研究すると人間のルーツが垣間見える?

 いずれの型にせよ、人間の創造力から端を発した神話は、人類の移動とともに少しずつその(内的・外的)世界を広げ、今に至ります。そして、それをリバースエンジニアリングのように逆行させると、人類のルーツが垣間見えるのです。
これは面白いアプローチですね(なんか偉そうですが)。

 

終章では、日本神話についての考察が記述されます。日本神話も、やはり他の神話(例えばポリネシアの島だとか)との連環が見られます。こうした考察を基に、日本人がどこから来たのかを探ろうと、本書では試みます。

 

最期に著者は、複雑化し、答えの見えなくなった社会において、ゴンドワナ型神話が持つ、「自然の一部としての人間」という主題の重要性を挙げます。

自然の中に生き、与え・与えられ、という互酬関係、はたまた原初の思考は、これからの世の中を見るヒントになるのではないかと提案するのです。
確かに近代の中で獲得された人間中心主義は、人間を、地球という様々な連環からなるユニットの支配者に据えました。その歪みは、環境問題などを見れば明らかで、今、各種の問題が次々と顕在化してきている次第です。
そうした問題に取り組む際、「互酬」という少し高い視座から問題を見ることは確かに有効です。ただし、「間接的で比喩的な」神話から、普遍的な要素を抜き出し、現代の問題に当てはめていく、という作業はいささか遠回りのような気がします。

 

効率的を是とする現代において、敢えて流されず物事をしっかり考えていく「スローイズム」という概念が大事だという主張もあるのですが、どうにも我々はせっかちでいけませんね。

いずれにせよ、そうした知識を現代に適用する・しないはともかく、神話を通した人類の発展・進化の物語は、我々の好奇心を強く刺激してくれるものであります。

 

【雑記】『夜と霧』読書会@ダーウィンルーム DARWIN ROOM(下北沢)

行ってきました。下北沢ダーウィンルーム DARWIN ROOM。

DARWIN ROOM

落語会などは何回か足を運んでいるのですが、
読書会は初めてです。
多少臆するところはあったのですが、何度も読んでいる『夜と霧』なので、他の方がどういう読み方をしているのか気になり、緊張しつつ参加した次第です。

冒頭、キュレーターの方から、会や本に関するアウトラインの説明があって、その後、自己紹介を兼ねて、参加者たちがごく簡単な感想を述べていく、というスタイルで会は始まりました。
本の魅力のせいか、30人ほど(この数字は割と多いようです)の参加者がおり、皆思い思いの感想を述べていきました。

『夜と霧』は、反戦争だったり、精神分析だったり、哲学だったり、さまざまな文脈で読み取ることができる本です。この日居合わせた参加者を見ていると、どちらかというと、戦争(平和)という文脈からこの本を捉えている方が多かった印象です。

ですが、何しろ参加者が多いもので、感想を30人が述べるだけで、プログラムの時間がほとんど終わってしまいました。あとはキュレーターの方を交えて20分ぐらいディスカッションを行い、一応、時間は終了。
ただ、ダーウィンルームのご厚意で、そのまま会場を開けてもらい、結局半分以上の方が残って、熱っぽく、さまざまなことについて語り合いました。

気づけば23時。実に楽しい会でした。

後半のディスカッションは、本に描かれていない、フランクルのパーソナリティ(実のところはどうだったのか)など、推論の議論が多くなり、『夜と霧』について純粋に語るところから大分逸れてしまったのですが、それもおそらく、皆さんの感じた好奇心の結果なのでしょう。
最終的には、フランクルを離れ、政治の話、戦争の話、そんなことも話しました。

途中で、欧州の「カフェ文化(誰でも気軽に話し合うコミュニティスペース)」の例が挙げられ、そういう場所は日本にあまり無い(だから議論の芽が育たない)という話がありました。
ですが、ここ(ダーウィンルーム)はまぎれもなくそういう場所だなぁと感じますし、都会の片隅でワクワクするような知恵が練り上げられているような、そんな熱量を感じた会でした。


これは私の場合ですが、「答えのない答え」を人と論じ合う機会は、大人になるにつれ、加速度的に減ってきています。軋轢を恐れるとか、時間がないとか、いろいろ理由はあるのでしょうが、結局のところ、水が流れるがごとく生きることが合理的で、その「楽さ」、「気持ちよさ」「めんどくさくなさ」を大人は手放せなくなるのかなと思います。
ですが、考えることはやっぱり楽しい。特に理由はありません。
だからこうして、自分から進んで外に出ていくことの楽しさを再認識した次第であります。


また読書会は行きたいですね(特に落としどころはありません)。

了。

【書評】『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル~君たちはどう生きるか~

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

 

 読みました。

最近、『君たちはどう生きるか』が流行っていますが、正直、違和感があります。もちろん、あの本は時代を超える普遍的な要素を元来多分に含んでいて、いつの世でも読まれていいとは思いますが、あれ、どちらかと言えば児童書ですよね。
しかも、漫画版だし。
なぜ今更、あれに大人がこぞって群っているのかは。。。まぁ誰にも分からないですね。大手代理店の策ではないことを祈ります。

大人向け「君たちはどう生きるか

のっけから話がそれましたが、読んだのは表題『それでも人生にイエスと言う』。
『夜と霧』が非常に有名なフランクルの著作です。
正直、この本のほうが「君たち(=大人たち)はどう生きるか」というメッセージを強く運んでくれます。私は、むしろ、この方が、意味の消失した今の時代に読まれるべきだと思います。

ここからは、記憶に残る部分をつらつらと綴っていきます。

第一章は、「生きる意味の消失した現代」という前提から語られます。「生の意味」「尊厳」などなど、宗教的な影響力も薄れ、さまざまな概念がどこか疑わしくなってしまった今日この頃。我々は意味を見出しにくい社会に生きている、というのがフランクルの論の前提です。

ですが、実際「生きる意味」など与えられるはずもなく、「人生があなたに何を期待しているか」という逆転の発想こそが真であり、この本の一番大事なメッセージです。

また、一人ひとりの人間が、一回性の生命を持ち、唯一性から代替不可能な存在なのです。だから「私なんてなんの役にも立てない!」なんて気安く話すのは、責任を放棄する行為でもあり、フランクルはそうした言動をたしなめます。
(ただし、その唯一性は、人間相互が暮らす共同社会の中で、責任を果たすことでやっと価値を持つものとも説明しています。例えるならば、虚言癖という性質は差異ではあれども社会的な価値はないですね。)

まとめると、「生きる意味とは、自分で見出すもの」であり、そのつどつど「今・ここ」において、共同体に生きる人として「責任」を果たすこと。これが本書を貫く背骨のような考え方になります。
正に実存主義的な考え方だと思います。
正に「君たちはどう生きるか?」です。

さて、第二章では、それが例え病や苦悩の中にあっても、人間性は決して損なわれないこと。
第三章では、アウシュビッツのような劣悪な環境でも、人生にイエスと言えてしまう、人間の力について語られます。

例えば、病で体が動かなくなってしまったとしても、その運命というか現象に対して、各人の責任の果たし方があるはずです。体が動かなくても、他者を労わる人間性。重い障害がある子どもでも、その子の存在自体が放つ親への愛。
こうした、病などネガティブな要素も、決して人間の生や尊厳、あり方を否定するものではない、ということが具体的事例を交えて語られます。
一番印象に残ったのは老人の話です。
「仕事もできないような老人に価値は見出せるのか?」という問いに対し、その存在そのもの、おじいちゃんのいる空間には、その人だけの代替不可能な価値がある、とフランクルは返します。
どこまで行っても、無価値な人生などない、というのがフランクルの主張です。

レトリック的とも感じられるけど勇気の出る本

本書を読んでいると、「どうも運命論っぽいな」とか、レトリックで人生を前向きに捉えなおす、自己啓発本という感じを受けます。
フランクルもそれを承知していて、かつそれを(やや哲学的な言い回しですが)ロジカルに根拠だてて説明します。その辺の妥当性は研究者や聡明な読者のレビューに譲りますが、それを一般読者が正確に理解できるかは分かりません。私には理解しづらい部分もいくつかありました。

ただ、やはり読んでいると元気が出ます。ナチス強制収容所という地獄を見たフランクルの言葉には、何か分からないけどグッとくるのです。

フランクルの言葉には重みがあります。

時折、人生の末期に際し、さまざまな苦しみ(例えば介護、病気)に襲われ「今まで何のために生きてきたんだろう?」と話す老人が居ます。
また、無残にも生命を奪われた家族を前に「何のために生まれてきたのだろう?」と嘆く人も居ます。
どちらも気持ちはとても分かるのですが、フランクル的な見方をすれば、その人の人生は最後に思い通りには行かなかったけれども、その生の中できちんと責任を果たしたのです。
例えば、家族を慈しみ、喜びを与える。他者を気遣う。それが些細なことであってもかまいません。責任の果たし方は、結局人それぞれなのですから。
また、そうした結果(最後)を嘆き続けることは、その人が果たした責任、行動に対して、目を閉ざすことでもあります。
我々が見るべきなのは、そこではないかもしれないのです。

……という薄気味悪いくらいポジティブな思考に立てるのが、この本の魔力です(笑)

巻末、長めの解説では「フランクルの実存思想」という題で、フランクルの思想を貫く(らしい)「快楽への意思」「力への意思」「意味への意思」などが語られます。
「意味への意思」が三者の中で高次の概念として存在し、それを補完する目的(こういう人生を送りたい)から「性」だったり「力」に意思が向くとか。
この辺はもう少しお勉強が必要です。

了。

【雑記】ホワイトデー・バレンタインデーが義務チョコ(モースの贈与論)

今週のお題「ホワイトデー」

私は若干コミュ障の気があるのか、、職場の関係をうまく築くのはあんまり上手ではありません。
人見知りっていうと、聞こえは若干良くなりますが。

バレンタインデーは義務チョコだ

さて、そんな私でも毎年バレンタインデーには「必ず」職場でチョコを頂きます。
頂けないのが問題なのではなく、「必ず」頂けることが問題です。

もはやチョコの受け渡しは完全な儀式になってしまっているので、私の人間性なんて関係ないんですね。
義理チョコではなく、「義務チョコ」となっています。

正直なところ、こうなると貰っても嬉しくもないですし、一応形式上、感謝の言葉を述べるんですが、気持ちはこもっていません。

これはあげる方にしても同様でしょうけど。

つまり、モースで言うところの、ただの交換の儀礼なんですね(本当は贈与論読んでません。ごめんなさい)。

ともあれ、この貰って、返礼する、という一連の動作がとにかく嫌いです。
いたたまれない気持ちになります。

もらうと、なんか恥ずかしいし。

PRパーソンとしては結構チャンスがありそう

私が企業の社長だったら、バレンタインデーを禁止して(本気のやつは除く)ここに費やすお金を(わずかでも)、地元に還元するとか、寄付するとか、CSR的な話題づくりをしますけどね。

 

早くなくなんないかな。義務チョコ。

下っ端だからできないけど。