シコウノイッタン

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【雑記】「肌色」を「うすだいだい色」と呼ぶ時代

肌色はどこへ行った?

聞いた話なのですが、今、教育の現場では、「肌色」の色鉛筆がないそうです。
では「肌色」はどこに行ったのか?というと、「うすだいだい色」という名に姿を変えたとか。
もちろん、これはご明察のとおり、人種配慮の観点からの変更です。

これを聞いたときに、昭和生まれの人間としては「なんだかなぁ」と思ったものです。
肌の色は、日本人が「肌色」で思い出す「あの色」とは限らない、という配慮なんでしょう。

時代の要請もあるのでやむを得ないのもわかりますが、それにしても以下の2点ほどに違和感が残り、一人モヤモヤします。

 

①そもそも、「うすだいだい色」というネーミングセンスはどうなのか?
確かに「あの肌色」はそんな感じの色とも呼べなくないのですが、いささか安直すぎるような気がします。
「うぐいす色」とか、「やまぶき色」とか、日本には雅な名前の中間色もあるわけです。その辺りをすべてすっ飛ばして、「うすだいだい色」というのは、なんだかサボりを極めた感じを受けるのは気の所為でしょうか。
よく知りませんが、そういうところから子どもの情緒が育つような気がします。
あんず色とか、玉ねぎ色とか、なんか遊びのある名前にしてほしいと思うのは私だけでしょうか。

 

②「うすだいだい色というネーミングにただよう、とりあえず臭いものに蓋しとけ感」
とりあえず「うすだいだい色」というネーミングをつけとけば、ゴチャゴチャ言われなくてOK的な弛緩した空気もここには感じます。
でも大事かつきちんと教えるべきことは、「肌の色は人種によって様々だけれども、それによって差別が起きていいものではない」ということです。
これは本質であり、ここへの配慮があるから「肌色」を消し去っているのに、「うすだいだい色」といネーミングで結果的に本質を隠してしまう、という大きな矛盾をおこしています。
いってしまえば、この逃げの姿勢は、本来の人種的配慮の意思に対する妨げにもつながりかねないと感じるのですが、どうなんでしょうか。


話が飛躍するのですが、ついでに書きます。
競わない運動会というのも、最近は結構当たり前のようになっています。
でも、子どもの頃から競争を取り上げられてきた子どもたちは、これからの荒波が訪れるであろう社会を本当に乗り切れるのか心配にもなります。
勝った負けたが生じるのは当然です。そこには得手不得手や、さらにはハンディキャップもあり、絶対にイーブンにならないのが世の常です。

だから、その現実を受け入れ、勝ち負けを通して、何かを感じさせる、次の一手を教えることが教育に必要なことのような気がします。その辺の丁寧なプロセスをすっ飛ばすと、これから大変なことになる気が、しました。

とはいえ、現場では「個別に教えるそんなめんどくさいことやってられるか」という現実もあるのは重々承知しています。
ただの理想論ですが、少なからず、家庭ではそういう風な教えをしなくてはいけないなぁと感じる今日このごろです。


ここまで書いて、以前にちらっと書いた保毛尾田保毛男の観点から見ると、私にも大いなる矛盾が感じられます。人種差別の比喩ともとれる「色鉛筆」はOKで、性差別の比喩である「保毛尾田保毛男」はNG。
2つの記事から考えるとそういうことになり、最後の最後で「ううむ」とうなっている次第です。

今日は以上です。

【了】