シコウノイッタン

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【書評】『哲学の最新キーワードを読む-「私」と社会をつなぐ知』小川仁志 –現代社会を取り巻く12のキーワード-

 

公共哲学とは何か? なぜ今、考えなくてはいけないのか?

読みました。
「私」と「社会」をいかにして繋ぐか、を考察することを「公共哲学」と言います(少なからず本書に於いてはこの定義で使われています)。
これまでの公共哲学というのは、比較的シンプルなものでした。

「私が社会を変える!」ではないのですが、少なからず、私という主体が社会に対してコミットすることで、公共哲学の実践がある程度出来ていたからです。

 ところが、近年のテクノロジー進化やグローバル化の影響で、公共哲学の実践はとても複雑化しました。特に事態を複雑にしているのが、本書で挙げられる以下4つの多項知(概念)です。

 ①感情の知(ポピュリズム、再魔術化、アートパワー)

②モノの知(思弁的実在論OOO(トリプルオー)、新しい唯物論

③テクノロジーの知(ポスト・シンギュラリティ、フィルターバブル、超監視社会)

④共同性の知(ニュー・プラグマティズム、シェアリングエコノミー、効果的な利他主義

 これらの多項知は、(場合によっては「課題」、「キーワード」と読み替えた方が分かりやすいかもしれません)いずれも近年の社会を巡る潮流の中で顕在化してきた知です。

現在、これらの多項知が、「私」と「社会」の「間」に潜り込んできて、勢力を広げつつあることが、公共哲学の実践を複雑化させています

 言い方を変えれば、これらの知は、現代社会の一つの障壁であり、これらをうまく扱えないと、公共哲学の実践ができづらくなってきているのです(イメージしやすいところでいえば、インターネットなどは、私たちの生活の一部となっています。もはやネット(=超監視社会)を抜きにして社会を正しく捉えることの方が困難だと思います)。

 本書の趣旨は、これらの解決のためのヒントを探っていこう、というものです。

 

多項知に影響され始めている社会

 では、これらの多項知をどのように飼いならせば、公共哲学を実践していけるのか?

本書の例にもあった、感情の知における「再魔術化」の問題を挙げてみます。

 近年のイスラム原理主義者の台頭(=再魔術化)を見ていると、脱宗教=理性(近代)の時代と逆行する現象が起きているように思えます。この背景には、経済の格差だとかいろいろと蠢いているのですが、いずれにせよ2001年以降、宗教的思想が他者の安全を脅かす事態となる機会が増えました。

こうした現象を指して「再魔術化」とするのですが、これに対して世界は真っ当な解決策を見出すことができていません。

本書で示される解決策はざっくり言うと、非宗教的市民と、宗教的市民の対話です。これらによって「寛容な」社会を創ろうと主張します。

 
また「ポスト・シンギュラリティ」においては、AIという非理性と向き合うには、開発から降りる、という割と大胆な提案がされます。
確かに、私のような一般人からすると、AIの開発は、なんとなく「どこまで」という目標設定が抜け落ち、純粋な「技術の向上」に憑りつかれているような印象を受けます。それが過度になると(本書中にもありますが)、「AIはどこまで行っても、指数関数的な目標を追求するに過ぎ」ず、目的達成のためには、世界すら滅ぼしかねない、という危険性を孕むのかもしれません。

 

これからは、もう一段アップグレードした理性の時代へ

 本書で挙げられている12の多項知は、いずれも非理性的な知です(もちろん、背後には人間が居る場合もあるのですが)。このように、非理性的なものが存在感を発揮してくる現代の潮流で、いかにしてその「非理性」を「理性」で以て飼いならすか?ということが、今、求められているようです。

 そして、本書で提案される「飼いならす=アップグレード」の方法は、「対話」だとか、「ルール整備」だとか、想像以上に普通なのですが、逆を言えば、社会を巡る事象に裏技的なものはなく、人間という主体はあくまで泥臭く行かねばならぬ、と感じさせられました。哲学は、やはり考え続けることの中に答えがあるのでしょう。

 さて、本書の提案をどう感じるかはともかくとして、面白いキーワードがたくさんあり、興味深い本でした。
紙幅のせいで説明しきれていない部分も少なくないと思いますし、どうも言葉が足りないなぁと感じる部分もあったのですが、さっと現代社会を巡る思想の地殻変動をおさらいするのには良い本だと思います。

 

そして、その中で、気になった言葉を個々人が探っていくことが、本書でいう、「公共哲学」のスタートラインになるのだと思います。

 

ちょっと綺麗に〆ようとしましたが、感想がとっ散らかってしまいました。