シコウノイッタン

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【寸評】『平成ジレンマ』ータブーを超えてみたけどもー

現代社会の「タブー」には、どこか蠱惑的な響きがある。禁じられた人間の本能への挑戦とでも言おうか。

タブー (taboo) とは、もともとは未開社会や古代の社会で観察された、何をしてはならない、何をすべきであるという決まり事で、個人や共同体における行動のありようを規制する広義の文化的規範である。(中略)などを通して社会を構成する個々人の道徳の基となっていることも多いが、社会秩序の維持のためとして時の為政者に作為的に利用される危うさも孕んでいる(検閲自主規制など)。(wikipediaより)

ルール、タブーは破りたくなる。はたまた、「破ったらどうなるのだろうか?」と夢想してしまうのは良くあることだ。ルールが人の欲動を抑える役割を果たしていることを考えると、タブーの境界を巡って、人の心が揺れ動くのは仕方がないことだと思う。

衝撃的だった、平成ジレンマという映画。

先日、あの戸塚ヨットスクール戸塚宏氏と、坂上忍が何かのバラエティ番組で議論したそうだ。戸塚氏は相変わらず、相変わらずだったようだ。

それがきっかけで、東海テレビが制作したドキュメンタリー『平成ジレンマ』を思い出した。確か、ポレポレ東中野で見たと思う。
あれは、なかなか強烈な映画だった。

カメラの前で繰り広げられる凄惨な体罰(及びそれに準じた行為)。
殴られる少年・少女。
取材の最中、身を投げた少女。
それらに面しても、張り付いたかのような微笑を崩さない戸塚氏。

映画は、特定のメッセージを加えず、フラットに制作されていたかのように思う。
見終わっての私の感想は「戸塚氏の主張も一部分からなくもない」だった。

戸塚氏の主張が分からなくもないもの

体罰には基本的に賛同できない。
ただし、人と人との向き合い方の中で、すべてがきれいごとで済まされるわけでもない。ほうぼう手をつくし、困り果てた親御が戸塚氏に子どもを預けているのは事実だ。

それらの現実に対し、戸塚氏は、体罰(少なからず劇中では「止めた」と言っているが)という現代のタブーを犯す形でコミットしていると取れる。
戸塚氏の微笑は「他に方法があるなら示してみろ!」といわんとしているかのようだ。
「マスコミ(世間)は体罰(戸塚氏)に対するバッシングを加えるばかりで、対案を示してこなかったではないか」と。
「私は実践をしてきた」と。

そうした「体罰に反対する我々もまた、明確な答えを持ち得ていない」という意味で、私は分からなくもないと思ったのだ。
もちろん、「とはいえ」という前置きが必要なのだが。

戸塚宏氏と教育者のジレンマ

戸塚氏の主張の根底には「誰も何もしないから、こんなことになっているのに、なぜ誰も分からないんだ」というものがある。
それと呼応するように、戸塚氏は劇中「本当はこんなこと(体罰)、誰もやりたくないよね」とも語っている。
これこそが、彼の持つ「ジレンマ」だ。少なからずこれは本音であって欲しい。(氏の言葉が全部ウソならば、ただのサイコパスだということなので……)
劇中、同様のジレンマが教育者の中にも拡がっていると見られる場面もあった。
平成の時代の「理想と現実」の隙間に、このジレンマが潜んでいるのだ。
そのもどかしさたるや。

タブーを超えた先に

この映画が教えてくれるのは、タブーの先に何か桃源郷のようなものがあるわけではなく、その先にある結果は相対的なものである、ということではないか。

もっと観念的に言えば、タブーとは「私」とそれを内包する「社会」の中に、確実にあって、しかし足を踏み入れてはいけない「禁猟区」のようなものである。
その線を「私という個人」が超える行為は、あくまで個人的体験―線的なもの―に留まり、面的な拡がりを持たない行為なのではないか。
逆説的に、もしその行為が面的な拡がりを見せるなら、それは社会の変革のときであろう。タブーがタブーでなくなる瞬間だ。

私には、戸塚氏は、体罰というジャンルのタブーの線を「またぐ」ことに魅せられ、タブーの本質を捉えることを放棄しているように思えた。