シコウノイッタン

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不倫に走る話【「武蔵野婦人」を読んで】

 

武蔵野夫人 (新潮文庫)

武蔵野夫人 (新潮文庫)

 

 どうも、今回ばかりは米国と北朝鮮がピリピリしています。
こんなしょうもない手記を書いている場合でもないのですが、何にもできることがないため書いています。

まぁともあれ、森友学園とか浅田真央の引退とか、ニュースの種を作りたいのは分かるのですが、もう少し社会情勢にメディアは時間を割くべきではないかと勝手に憤っています。

そうそう、表題の武蔵野夫人を(いまさら)読みました。
別に不倫が流行っているからとかじゃなく、たまたまいい感じの古本屋で100円だったので買った次第です。

ざっくりいうと、親戚関係にある二組の夫婦+αがスワップ交換(ここでいう交換は合意に基づく交換ではない)、というか不倫をし合う話です。

主人公の道子は秋山という旦那がいますが、秋山は道子の親戚の富子と不倫。
一方で、道子は「恋」という煙幕でごまかしますが、親戚の勉と不倫(未遂)。

ついでに言うと、勉は最終的に富子とも関係を持ちます。

秋山と富子は、不倫を肯定しています。
対比的に、道子は道徳的な面(不倫+背徳)で悩み、もがきます。体の関係こそありませんが、完全に心では勉と不倫をしています。

婚姻という制度を支点に、生殖の本能を、どうコントロールしていくかの対比がここで起こっています。

前者のカップルは、婚姻というシステムは後天的なもので、あくまでシステムの話、つまり運用は個々人次第というスタンスです。だから社会的な制約に拘泥せず、ズブズブと深みに陥ります。

対して、後者は、社会的な制約を疑わず(この表現は読んだ人にはわかると思いますが適切ではありません)、そのルールをあたかも大地と見なしたため、最後まで跳躍できませんでした。

線をやすやすと飛び越えたカップルとそうでないカップル。その姿は、我々の社会にある常識と呼ばれるものの不確かさ、曖昧さを見せつけてくれます。

(ただ、跳躍できたからといって成功かどうかは分かりません。大岡昇平は、跳躍できなかったものの悲惨な末路を、淡々と綴っていきます。実際、秋山ほか数名は跳躍した結果、太陽に翼を焼かれました)。

この小説で大岡昇平は、道徳じみた説教ではなく、人に起きる悲哀を書きたかったのでしょう。そんな気がします。
ところどころに現れる神の視点もそうですが、どうも作品全体が舞台装置のような感じを受けます。全ての出来事は、大げさな儀式のような、そんな滑稽さが作品全体の煩悶の中に潜んでいます(これが当時のスタンダードだったのかもしれませんが)。
そうした意味で、今で言う昼ドラ的なものと考えて差し支えないのではないでしょうか。
財布のステーキとか。

一方で、結果的にこの茶番のような不倫報道がひた続く現代に、この小説は教訓を与えてくれます。


不倫とはいろんな意味で難しいものだと。
不倫をだめとしているのは、システムです。言い換えれば我々の類まれなる想像力による幻想です。想像力を欠く動物には不倫は存在しませんしね。
我々は生理学的に基づく根拠ではなく、思考を根拠として、性的衝動を抑え込んでいるわけです。

「想像力」で、「生殖という本能」を抑え込むという現代社会の構造が、どこまで健全なのかということに関して、私は答えに窮してしまうのです。

ちょうど同時期に構造主義やら、レヴィ・ストロースを読んでいたので、どうしてもこうした答えになります。
やっていいことと悪いことは当然あり、不倫を肯定するわけではありません。

ただ、難しい問題です。

話が戻りますが、ちゃんと明日が来るといいなと切に思います。
いろんな意味で不謹慎な話で恐縮です。