シコウノイッタン

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体罰のない世界

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体罰のない世界を考える

私の好きな角界も含め部活動の場など、体罰について色々と議論がされています(上のリンクはそんなに意味がなく、なんとなく貼っているだけです)。

体罰について「良い・悪い」の二元論で話をするとなると、もう自ずと答えが出ていますのでアレコレ語りません。これは「悪い」ものでしょう。議論の余地もありません。

一方で、昭和の生まれで、バリバリの体育会系で、先生とかコーチにはたかれるのが割りと日常的だった私からすると、「体罰なき世界」とはどんなもんだろう、と考えてしまいます。

覇気のないプレーや、イージーミスをしてしまい、コーチから叱責(時に手が出る)を受けることは、振り返るとそれなりの緊張感がありました。

世間の流れによって、体罰がなくなったとすると、あの緊張感はどこへ行くのだろう?と考えてしまうのです。

体罰の系譜学

そもそも、体罰とは「何で」、「何を成してきたか(系譜)」のでしょうか。
恐らく体罰は、組織を効率よく、かつ強靭にするための手段として存在してきたのだと思います。
体に訴えることで、人をコントロールしようとする、一つの残酷な発明として、体罰は誕生し、存在しつづけたのだと思います。
格好良く言えば、ガバナンスのためのツールなのかもしれません。

体罰がもし今後廃絶されるのであれば、強靭な組織を作るための代替のガバナンス手法の導入が必要となるでしょう。
それはコーチングの手法だったり、心理学的なアプローチであったり、いろいろあるのでしょうが、その指導を考える立場の人間としては、なかなかに悩ましい問題かもしれません。

ただ、個人ベースで話をすると、あの体罰を通じた緊張感は、振り返ると貴重だなと思います。部活動をやっていた方は分かるかもしれませんが。
なので、悪いものは悪いのですが、なんとなくモヤモヤしてしまうのです。