【書評】『不平等論』ハリー・G・フランクファー卜 〜他人の定規で生きていないか?〜
- 作者: ハリー・G.フランクファート,Harry G. Frankfurt,山形浩生
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2016/09/12
- メディア: 単行本
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読みました。
やや言い回しは難解なものの、言っていることは割合シンプルな本です。
そもそも、フランクファートは、道徳哲学の分野における大家であり、その「道徳」という視点から、世にはびこる平等主義を批判しているのがこの本です。
第一部では、経済学的分析から平等主義を解体します。
そして第二部では、まさに道徳的な視点から、同様に解体を試みます。
そもそも、なぜ氏は平等主義を批判するのでしょうか?
平等主義はなんら道徳的価値を持たない
さて、「平等に」「格差だ」という言葉は
ー特に新自由主義の下でその含意を成長させたと思っているのですがー
近年、その影響力を増しているように思います。
ところがその声が志向する、「平等」とやらも「格差」とやらも、それ自体がなんら道徳的価値を持たないことを氏は切々と語ります。
なぜなら、「平等」や「格差」は、「十分に持つもの」と「持たないもの」から派生的に生まれるものであって、根源たる「十分性=充足性ドクトリン」にこそ道徳的価値があり、目が向けられるべきものだからです。
格差は当然なくなりません。
大事なのは、格差があるという前提のもと、その人が十分に生きていくのに困らない程度の財が与えられているかどうか、ということです。ここにこそ、我々が着目すべき、道徳的価値が潜んでいるわけです。
結果的に、十分性を追求すること(例えば税の配分の見直しなど)で、格差が縮小したり、平等性が増すことは考えられますが、そもそもの力点が違う、と氏は訴えます。
批判は続きます。
「平等に」という言葉は響きは良いのですが、要は平等主義というのは究極の効率化、はたまた「サボり」なわけです。
なぜなら、人はそれぞれに置かれている状況は異なります。億万長者の持つ1万円と、貧乏人の1万円は、まるで意味が変わってきます。
そうした現実を排除し、マクロ的視点から平等主義こそがドグマであると信奉していくのは、間違っている、と。(この辺は、先の地域振興券なんかを想像するとその不当性がよくわかります。)
要は一人ひとりの状況をもっと真剣に考えろというわけですね。
そして、一人ひとりの置かれている状況が違う以上、他者との比較自体がさして意味を持たないとも、氏は主張します。
「年収はどれくらい欲しい?」と聞かれ、
「うーん、1,000万くらいあったらね」
なんて会話をすることがあるかもしれません。
でも、この「1,000万円」。一体どこから来たのでしょう?
その人は、自分の人生に必要なキャッシュを計算し、1,000万円と答えたのでしょうか?
違いますね。この数字は借り物でしょう。
平等主義が問題なのは、他者に大きく影響されてしまう点です。
十分性に視点が根ざしていれば、自分に必要なお金はこれだけと言えるのでしょうが、平等主義はどうしても視線が外に向かいます。
そうした意味で、他者の定規で生きてしまう、という危険性を氏は指摘しています。(この辺りの説明はもっと鮮やかなんですが、どうにもうまくいきません)。
これらが、大体第一部の骨子。
第二部は短くて、概ね概念の話です。
私の解釈では、平等とは非常に大雑把で包括的な概念で、その下には、「尊厳」だとか「配慮」といった本質的な概念がぶら下がっているようです。
つまり、第一部でも、平等は十分性の派生的な「ただの現象」として扱われていましたが、そうした関係性です。
本質的な概念にこそ、道徳性が潜んでいて、すべての人を平等に扱うことは、むしろその人の持ち合わせている人間性に目を向けないことであり、尊厳の棄却であると、表現します。
まとめ
最終的に、我々はこの本からの学びをどう解釈すべきか。
一つは無意識的に平等を志向する精神を改め、その対象がもつ本質的なものを見る「まなざし」を獲得すべき、ということでしょう。
それには多大な苦労や、非効率でさえあるけれども、道徳という概念を実践していくには必要な試みです。
そして、そのことを、現在の社会は否定し、平等に扱おうと振る舞います。その誤りを、危険性を本書は批判しているだけなのです。
もちろん、実社会において、個別の状況を踏まえることは不可能です。
そうした事実から切り離され、あくまで道徳的観点から社会を批判していることを氏はきちんと明言しています。
一応補足。
とっっちらかりました。
了