【雑感】都会に疲れたオジ。
帰りの電車で、ふと天井を見上げると、首都圏の複雑怪奇な電車網ネットワークの案内が見えた。
ネットワークとはよく言ったもので、その姿は我々の身体に張り巡らされた毛細血管のようだ。
これはほどけない。
余りにも、我々は複雑に絡みすぎて、それ故に、どこかぎこちなくなってきている気がする。
絡み合っている土地、人、思念、情報。
取捨選択スキルこそが、これからの時代の鍵になるのだろう。
なんてね。
了
【書評】最終巻『ペリリュー~楽園のゲルニカ~(11)』~もう半額セールだと……!?~
これまで漫画のことはあまり書いていませんが……
「ペリリュー~楽園のゲルニカ~」最終巻、読みました。
内容は後述しますが、一番の問題はkindleセールで全巻半額で売られているという事実!
こないだ出たばっかりやん。。ほぼ定額で買ったのに。
とはいえ、買うなら今ですよ。夏休みの課題図書にどうぞ。
【目次】
▼先の見えなかった物語を綺麗に〆た
さてさて、本編のほうですが、なんだかんだで良い終わり方だったとつくづく。
正直、終戦後のサバイバル編は「蛇足」とする声もありましたが(私も中だるみを感じていた)、最終的に綺麗にまとまった印象です。
というのも、終局において(正確には11巻)やっと作品をめぐる作者の意図がはっきり開示されたからです。
それは、「戦争体験は、当事者であろうとなかろうと、消えることがない」、ということでした。
言い換えれば、戦闘行為があろうがなかろうが、各人の戦争は終わらない、という普遍的テーマです。
戦争は、人の心に大きな空白を作る。そしてその空白部分は常に疼きを伴います。
だから、各人はその疼きを和らげようと、それぞれの仕方で対応し続けます。
その苦闘を描くには、戦闘行為としての大戦が終わった後の、「戦争=サバイバル編」。そして平和になった世の「戦争=拭えない記憶」を描く必要があった。ということでしょう。
なので、蛇足と思われたサバイバル編も、そこに至るフリだったわけです。
「作者はこれを描きたかったのかー!」というメッセージを最終巻にて鮮やかに提出・整理したので、それが中だるみ(失礼)との良いギャップを生み出し、冒頭の良い読後感につながったのではないでしょうか。
あとは、ネタバレになりますが……
▼吉敷が見つからなくてよかった
10巻で銃撃後、重体、というか吉敷の遺体が行方不明になりましたが、「実は島田少尉が救っていました(回収していました)!」みたいなファンタジー的オチがなくて本当に良かったですね。その点、わたくし、非常にハラハラしていました。
で、もっと良かったのは、遺体はワニに持っていかれたのではないか、という余白を残したところです。
というのも、私はこの部分に、この戦争行為という「不自然」によって荒廃させられた、自然のレジリエンスを感じたからですね。
いやまぁ、別に環境保護活動家みたいなことが言いたいのではないのですが、そこには、自然の逞しさに対する、戦争行為の小ささの対比が最後にスパイスとして良く効いていたと感じる次第です。
吉敷の遺体の謎がないと、先述の「戦争=拭えない記憶」がつながってこないので、この辺も予定されていたプロットでしょうが、いずれにせよ70年間、消えた遺体の謎を演出し続けたワニちゃんもグッジョブだったと思います。
(完全に蛇足の感想になりました)。
▼記憶の承継は我々の世代がもっと取り組むべきですが…アニメ化はちょっと心配(個人的に)
というわけで、私を含め、ペリリュー島での戦闘を知らない人々に対し、多くの関心を引き起こし、かつ各人にいろいろな想いを去来させたであろう、この「ペリリュー~楽園のゲルニカ~」。読んで非常に良かったと思うわけです。
戦後73年。私も以前、戦争体験の承継に関わったことがありますが、記憶の承継は本当に難しい問題です。
漫画化に対する賛否は最終巻の片倉兵長との邂逅でも描かれていましたし、また後書きのおまけ漫画にも記載があったように、なんらかのハレーションを生みます。
とはいえ、「じゃぁ何もしなくていい」という訳にもいかないですから、私達の世代がここで踏ん張らなくてはいけないような気がします。
そして、「記憶の承継」という言葉を当たり前のように使っていますが、記憶を話すことも、聞くこともとても勇気がいる行為です。
そういえば私も、祖父母からは戦争の話を聞かずじまいでした。祖母は川崎で空襲にあって怖かった、という話を一度だけしてくれましたが、当時20歳くらいの私は、それ以上突っ込んで聞くのは申し訳ないと思ったのを思い出します。
さて、話がそれましたが、この「ペリリュー~楽園のゲルニカ~」は、とっつきやすいのでぜひ多くの人に読んでもらいたい漫画です。
ただ、告知された「アニメ化」は可愛い絵柄とはいえ正視に耐えるか、という点が若干懸念事項です。
見ますけど。
了
【書評】『悪と全体主義―ハンナ・アーレントから考える』~100分de名著?
読みました。
ハンナ・アーレントの思想の概要、それも全体主義についての考察のみを簡単にまとめた入門書です。
以下、備忘録的にやや詳細ネタバレ。
▼本書の概要
アーレントの原著にあたったことがないような人にも分かりやすい、平易な文章で書かれているので、アーレント、というか全体主義の起源について知りたい、という人には良い本だと思います。
ただし、アーレントは歴史、哲学、文芸と縦横無尽に話題を引っ張ってくるので、原著が難解だといわれます。その傾向は解説書でもある本作にも若干ではありますが見られます。
個人的考察を交え、内容をまとめていきます。
▼第一章『ユダヤ人という「内なる異分子」』
第一章は全体主義の起源の起源。
いかにしてユダヤ人嫌悪が起こったかを解き明かす章です。
ざっくりまとめれば、ヨーロッパに於いて、ナポレオンという人物を契機に、絶対君主制から国民国家(ex.日本とかアメリカとか)への体制の移行が起こります。
ナポレオン(フランス)という強敵を相手にするために、ヨーロッパ各国では国民の団結が必要になりました。
その過程で、ユダヤ人解放令などが出され、いつの世も流浪の民であったユダヤ人を国家に取り込みます。
ところが、もともと嫌悪の感情があるので、さまざま出来事をきっかけに、再びユダヤ人は排斥され始め、後々のナチスによる蛮行に繋がります。
という内容です。
ここでは、集団という存在を動かし続けるには、仮想敵、共通の敵というエンジンを人間は必要とすることが分かります。
それが歴史的にはたまたまユダヤ人だったというだけです。
▼第2章『「人種思想」は帝国主義から生まれた』
第二章は人種思想が如何にして生まれたか。
同一性を重視する国民国家の設立をきっかけに、近代帝国主義が花開きます。
ところが、ローマ帝国を仮に法と統治を主眼としたピュアな帝国主義だとすると、現代の帝国主義は国民国家とのハイブリッド。
出自が違うため、本質的に相容れないものです(同一性を重視するので、当然、侵略先の国民とは交わりません。従って市民権も与えず、ただ圧政を施すのみ。)
そうして排他的な侵略が行われる中で、人種思想、国民意識が醸成されてきます。
ドイツでもそうした流れを汲んで、民族的ナショナリズムが起こります。「ドイツ国民」であることではなく、「ドイツ民族の血を引いているかどうか」を重視する運動です。
民族という曖昧なものではなく、血という尺度を持ち出したわけです。
それらが海外帝国主義によって生まれた人種思想、進化論、優生思想、そして過去のユダヤ人との軋轢が複雑に織り込まれていった結果、ナチスドイツ(全体主義)へとつながっていきます。
ナチスドイツ(全体主義)への移行の過程でアーレントが注目したのは、無国籍者でした。
これは、迫害を受け、自身も無国籍者に類するものであった経験からくるものです。
各地での戦争から生まれた無国籍者(または難民)には、ヨーロッパの国民国家で当たり前だった人権が適用されません。
人権を保障するのは、その人の属する国家であり、その国家がなければ、人権など妄想でしかなかったわけです。
人権こそ普遍的な権利と信じ切っていたヨーロッパの人々に大きな衝撃を与えます。
つまり、人権が適用されない眼前の無国籍者と、一歩間違えば自身の人権すら危ういことを勘案すると、これまで是としてきた法による支配が非常に脆弱なものであることが明らかになってしまいました。
これが、法「以外」による国家統治即ち全体主義へとつながるとアーレントは指摘します。
こうして第一章、第二章を一言でまとめると、「同一性の飽くなき追求(とそれによる排他)」と言ってもいいかもしれません。
どちらかと言えば、理性というより、生理。生存本能に近い思考があるように思うのですが、そうした思考が近代の帝国主義や資本主義など、時代の流れと絡まり合って、ナチスドイツのような惨禍に繋がったと考えることができるでしょう。
しかし、近代を見ても、そうした血や民族による同一性の思考を乗り切れていないのが事実ですね。
▼第三章『大衆は「世界観」を欲望する』
第三章の要旨は、まとめると、「階級社会がなくなり、大衆の誕生により、人々が流されやすくなった、ないしは支配者によるコントロールが簡単になった」ということです。
ドイツにおいては、第一次世界大戦の敗戦後、未来の展望を描くことのできなかったワイマール政権に対し、ナチスドイツが強いリーダーシップと嘘にまみれた将来図を提示します。
緊張感や不安が強まったとき、人々は救済の物語を希求します。これらがピタリとハマったわけです。
ナチス迫害の中で、人を簡単に「殺せる」ということよりも、「いなかったことにできる」という恐ろしさをアーレントは強調していることも補足しておきます。
ある程度のプロパガンダ的なメソッドを以て、大衆はコントロールができます。これがナチスの全体主義に繋がったという内容です。
もちろん、これは現代社会にも通用するとアーレントは指摘しており、誠に耳の痛い話です。
というわけで三章にかけて、全体主義の誕生を追いかけていきました。
▼第四章『「凡庸」な悪の正体』
そして第四章は、アイヒマン裁判の件。
ここでは、その全体主義の中で行われた「悪」の本質についての考察がなされていきます。
ナチスの大量虐殺を支持したアイヒマンが、裁判という蓋を開けてみると、ただの小役人で、上の命令に淡々と従っただけ、という事実をアーレントは知ります。アーレント、ひいてはユダヤ人としては、アイヒマンは凶悪で残忍で無慈悲な悪を凝縮したような人物像であって欲しかったのです。
このことを知り、アーレント自身も一瞬、振り上げた拳の置きどころが無くなりますが、感情に飲まれることなく哲学者として非常に冷静な分析を行います。
しかし冷静すぎる分析が、感情に動かされる大衆の批判を呼んでしまいます。
アーレントに降りかかった出来事はさておき、アイヒマンは、ユダヤ人迫害に情熱を燃やす訳でもなく、とにかく上の命令に従ったことにアーレントは注目します。
これを、彼女は「無思想性」と表現しました。
そして、これと対極にあるのが複数性。
全体主義は、個を排し全体一個を追求する思想ですから、複数性こそ、全体主義という構造に穴を開けるツールとなるとアーレントは考えました。
アイヒマン裁判におけるアーレントの重要な主張は、悪というものは、巨大で歪な黒黒としたものだけではなく、アイヒマンのようなチンケな小役人による無思想性でも行われ得るということです。
そして、この延長線上に、我々大衆の思考停止、無思想があります。
つまり、一見して穏健そうな大衆からも悪は生まれ得るのであり、それを乗り越えるには前述の複数性を担保しながら、大衆とは縁を切って思考し続ける、というアプローチが必要になる。そんなメッセージを送っているのではないか。
そんなことが語られます。
▼終章『「人間」であるために』
終章「人間」であるために、では、これまでのまとめと、アーレントの有名な著者である「人間の条件」についてサラリと触れられて居ますが、本当に触りだけ。
雑にまとめてしまえば、前述の複数性をキーに、我々の思考をアップデートしよう的なことが、著者の言葉を交えて語られます。
よくビジネスの現場で言われるように、多様性こそイノベーションの種となります。
アーレントの考察は、現代(と言ってもそんなに古い人ではないですが…)にも通づる部分がたくさんありますが、変にアーレントの議論を援用することは、彼女の主張を矮小化することにも繋がる危険があるような気がします。
少なからず、本書の種本である「全体主義の起源」に於いて、アーレントは触れてないわけで。。
で、最後まで読み終えて、この本、NHKの『100分で名著』を再編集したものと分かりました。
そのせいでこんなオチが用意されたのだな、と理解しました。
いずれにせよ、私のような初学者でもアーレントの思想(と呼べる部分は本著に少ないのですが)に気軽に触れられるのは良いと思います。
まずは手始めにどうぞ。
了
【映画】『地獄の黙示録』は面白い映画なのか?
見ました。
映画史に残る作品なので、内容についてはわざわざ多く語る必要もないですね。
町山さんの動画を見ましょう。
ここでは、ちょっと思ったことを書き残します。
[目次]
▼『地獄の黙示録』は面白い映画か?
さて、正直面白い映画かと言われると、面白くはないと思います。考えさせられるけど、面白くはない。
前半はスリリングだし、戦争の狂気が視聴者に伝わってきていい感じです。
しかし後半、カーツ大佐と対峙するあたりからは混沌としてきて、前半の分かりやすさと比較して分かりにくい展開になるので、決して見て「面白かったー」と手放しで言えない複雑さがある作品ですね。
▼映像の裏に隠されているものは真実か
映画でもなんでも、批評をするときに、我々は「このシーンにはどういう意図が隠されていて…」「ここでコッポラが表現したかったのはこれこれで…」と、とかくその背後にあるものを語りたがります。
そして、それを正確に言い当てた者が、「批評」というゲームの勝者になれます。
そうした意味では、我々はなかなか純粋な「映像体験」として映画を見ることは難しく、「映像を見ているようでそこに見えていない部分を見ようとする」、という不可思議な現象を経験していることになります。
それは現代人が取り外すことのできない「知の枠組み」なので、我々は否応なしにそのゲームに巻き込まれることになるのですが、果たして、そのゲームを超えて映画というものを見つめていくことが可能なのか?
そのゲームに乗っかることが正しいのか?
この『地獄の黙示録』を見て、そんな思いが強くなりました。
▼分解したがりな時代
現代人はとかく作品を分解したがりますが、そうした思考の枠組みには極力抗ったほうが良い、と私は思います。もっと言えば、映画を見るにはもっと自由でいいはず。
もちろん言葉で語られていないものも作品の中にはたくさんあるし、意図して隠された真実があることもあるでしょう。
ただそれらをすべてテストのように血眼になって答え合わせをしようとする姿勢は単純に疲れちゃう。そして、それでも意味のわからなかったシーンをネットで調べちゃうのは、私自身も囚われの身だからでしょうね。
畜生。
『地獄の黙示録』を見終わって、私が思ったのはそんなことでした。(続けて見た『ディア・ハンター』もまったく同じだった。)
最後になりますが種本である、ジョセフ・コンラッドの「闇の奥」は面白いです。
おすすめです!
了。
【ドキュメンタリー】『メリエム』〜ショートショート フィルムフェスティバル & アジア 2018ノンフィクション部門最優秀賞〜凄いもん見た
▼あらすじ
自由のため、イスラム過激派と戦う女性たち
シリア北部で勃発したコバニ包囲戦。イスラム過激派組織との戦いの中心に女性たちがいた。強靭な精神力をもとに、彼女たちは自由のための戦いに挑み続ける。
▼凄いもん見た
見ました。
すごい映像を見た、というのが一番の感想。
何が凄いのか?
女性兵士たちは皆、生と死が交錯する場でヘラヘラしている。
なにかこう、近所で井戸端会議をしているような独特の緩さがある。。
しかし、その緩みは、ひょっとすると緊張に対する緩和剤なのかもしれないと考えると胸が痛む。
戦場には色がない。
焼け焦げた死体は、我々が想像する遺体と同じ像を結ばない。
まるで瓦礫の一部のようだ。
そうした瓦礫とかしたものに、一瞥もくれず去っていく女性兵士たち。
カメラマンの打算だけが、其の画を捉えようとしている。
その対比は、当事者と非当事者に痛烈に線を引く。
一方で、若き女性兵士は「たくさんの仲間が死んだ」と涙を流す。
それを歴戦の勇士・メリエムは、「負けちゃだめ」と励ます。
「何に」負けて、「何に」買って、その勝敗の果てに「何が」あるのだろうか?
一族、民族、国家の末端として、極めて冷徹に敵を倒すことを追求するメリエムの姿に、鳥肌がたつ。
▼ハエを振り払うことで私達と戦場がつながる
映像の途中、メリエムの頬にハエが止まるシーンがあった。
私は、彼女にハエを振り払ってほしくなかった。
止まったハエを追い払うという「普通」の行為を「しない」ことで、メリエムと「我々」は違う生き物である、ということを、心の奥底で再確認したかったのだと思う。
しかし、彼女はハエをこともなげに振り払う。
その瞬間、我々とメリエムに橋がかかる。
映像に映る戦場が、私達とリンクしていくのを感じた。
戦闘機の爆撃で、ハリウッド映画のそれとは違う爆炎が天高く登り、映像は終わる。
16分弱の強烈な体験。
了
【映画】『わたしは、ダニエル・ブレイク』~国家にとって「私」とは。「制度」を巡って~

あけましてなんとやらです。
年末もバタバタしていたのですが、この映画だけ、なんとかみることができました。なかなか感じ入ることが多かったので少し書こうと思いました。
【目次】
▼まずは超簡単なあらすじ(ネタばれ)
物語の筋はシンプルです。
- 主人公ダニエルは大工。心臓の病気で働けなくなり、(日本でいう)障害年金を受給しなくてはいけなくなった。
- 舞台であるイギリスの社会保障は、めちゃくちゃ受給条件が厳しい。いじわるとしか思えないような役人とのやりとりに辟易するダニエル。
- すったもんだしていた役所でシングルマザーと出会う。彼女もまたお金に困っている。
- 交流を続けるなか、シングルマザーが困り果てて、窃盗、ついで売春に身を落とす。
- いろいろあったけど、シングルマザーは苦境から脱出。人権派の弁護士を通じて、ダニエルの受給も認められそうになる。が、ダニエルは受給を争う問答の直前に心臓発作で死亡。
- ダニエルの葬式で、シングルマザーによる、取り立てて特別でもない、「普通の弔辞」が読まれておわり。
…と、まぁジャケ写からは想像もつかないような救いのない展開です。
▼イギリスの社会保障制度に対する痛烈な批判と、制度というものに対する警鐘
シンプルに見れば、この作品は、イギリスの社会保障制度に対する痛烈な批判でしょう。私はそれに続いて、「制度」という一種の権力が持つ危険性に対して警鐘を鳴らしているように見えました。
その辺を少し補足したいと思います。
まずは劇中、何回も「税金をきちんと納めてきた」というセリフが出るのですが、普通に納税をしていても国はダニエルにお金をあげようとしません。
そして最終的に、「人を救うための制度(社会保障)」がダニエルを間接的にとはいえ「死に追いやってしまう」のですから、もはや事故ですね。
一般的に「制度」とは、見方を変えれば、効率化のためにあります。
従って、その制度(効率化)を突き詰めることは、柔軟性を失わせ、本当に支援の必要な人に寄り添えなくなる危険性を孕んでいることを、この映画は教えてくれます。
そしてその制度を業務として突き詰めるなかで、役人も「本質を失っていく」という描写が嫌というほどありました。
彼らのミッションは本来、「住民(ダニエル)の福祉の向上」にあるはずですが、劇中の役人のミッションは、「いかにして受給を止めるか(あるいは税金の支出を抑えるか)」にすり替わっています。
これは「制度」というものが持つ「強力な力」が、役人の思考を停止せしめたことを表しているでしょう。
▼尊厳すらも制度は奪い去る
そして、役人(国家)は、この「制度」というフィルターを使って、ダニエルを「個性を持った一人の市民ではなく」、「受給希望者〇番」というように、まるで記号のように扱っていくことになります。
結果的に、このことがダニエルの尊厳を奪い、終盤の非常に印象的なシーンにつながっていくことになります。
ダニエルは、「これ以上面倒を起こすと支給が止まるぞ」と警告する役人に対し、「尊厳を失った時点で終わりだ」と返すのですが、ここでも、突き詰めれば「制度」は人の尊厳をも奪いうる「強力なもの」であることが示唆されています。
…込められたテーマを掘り下げていくと、そのほかにもたくさん書きたいところがあります。が、きりがないのでそろそろ止めにします。
この映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、こうした「(社会保障)制度」を媒介に、一市民(弱きもの)と国家(強きもの)という対立をシニカルかつ、奥深く描いた良い作品でした。
あらすじにも書いたのですが、最後の場面、シングルマザーが読み上げる弔辞もすごく「普通」なんです。特にスペシャルでもない一人の市民の死がそこに描かれています。そこには二つの対立軸を巡っての最大の皮肉が込められているようでした。
ほぼBGMを使わず、非常に淡々した編集で綴っていくのも非常に映像として効果的だったように思います。
まぁシングルマザーの転落があまりにもステレオタイプ過ぎたのと、演出なのか、淡々としすぎて登場人物の内面描写があまりなかったのは少し気になりましたが、年末にかけてうーんと考えさせられる映画でした。
特に制度を巡っては、国家の限界、というものを感じましたね。
われわれの年金ですらどうなるか分からないですし。
われわれ一人一人に国が寄り添ってくれるかどうかは不透明ですし。
まぁだからといって、改革しろ!と叫ぶわけではありませんが。
さて、こんな感じで今年もだらだらと書き綴ってまいります。
了
【書評】『公共R不動産のプロジェクトスタディ: 公民連携のしくみとデザイン』〜あなたのすみたいまちはどんなまち?
公共R不動産のプロジェクトスタディ: 公民連携のしくみとデザイン
- 作者: 馬場正尊,飯石藍,菊地マリエ,松田東子,加藤優一,塩津友理,清水襟子,公共R不動産
- 出版社/メーカー: 学芸出版社
- 発売日: 2018/06/08
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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読みました。
公共R不動産という素敵な会社が手がけた公共空間の活用プロジェクトやら、国内外のさまざまな事例が掲載されていて、「資金調達とか、小難しい話はわかんないんだけど、とにかく行ってみてー」となる本です。
▼将来の暮らし方を想像したことは?
日本って今ひとつ、公共空間を活用した取り組みが遅れているような気がします。
特に都心部などは、狭小な土地を奪い合うように切り刻んでいった結果、見事なまでに「良い」空間とか、「良い」景観とかいった概念がすっぽり抜け落ち、とにかく「詰め込むだけ詰め込んじゃえ」感があります。
そうした空間において、都心の人々は、ライフスタイルよりも、ライフサバイブといいますか、なんちゅうか日々の暮らしをサバイブしていくような鬼気迫るものを感じます。
とはいえ将来的に、日本人はもっとモノ消費よりもコト消費(しかもお金がかからないコト消費)、つまりライフスタイルに目を向けた生活に傾斜していくと私は考えています。
その理由は単純で、将来的な増税等々により、可処分所得の減によって、物が買えなくなるからです。
国は、搾り取れるところは徹底的に搾り取るスタンスなので、特に社会のミドルからロワーサイドに属している人々は、生活が苦しくなるのは簡単に予見できるような気がします。
そうすると、ショッピングなどに消費されていた時間がどこで消費されるか?
公園など、限りなく安く使える公共空間・公共施設ではないでしょうか?
つまり、休日は近所の公園でまったり過ごす、みたいなライフスタイルに、ある意味不可避的に人々の行動が収斂していくのではないかと考えています。
消費行動ではなく、もっと生活の質に目を向けた(やや後ろ向きな理由ながら)ライフスタイルへの変化。
そうなると、公共空間の重要性というものは、ますます問われるようになるはずです。
と、まぁこの見立て、「なんか冒頭の本に絡めて強引じゃね」と言われても仕方ないかもしれませんが、私は日頃からそう考えているんです。
▼公共空間を巡る問題はたくさん
ところが、その公共施設・空間に関してもいろいろな問題を孕んでいます。
とりわけホットなのが「公共施設再編問題」。
日本全国、1970年代の高度成長期に建てられた公共施設が現在、軒並老朽化し、多くの自治体が改修するか潰すかなどの決断を迫られています。
改修はとにかく金がかかるし、潰せば潰すで、利用している住民からの反発がある。
悩みは尽きないと思います。
あとは例えば公園の問題なんかもあると思います。
誰も使っておらず、草がボーボーの公園とか、身近にありませんでしょうか?
ああした施設も悩ましい。
自治体としてはきちんと手入れをして、みんなに使ってもらいたいけど、維持補修をする金がない。だから放置される。(もちろん熱意ある住人によって自主的にきれいに維持されている公園もあったりはしますが)
▼今こそまさに公共空間の曲がり角
まぁこんな感じで、「公共施設・空間」と「金」と「担い手」を巡る問題に今の各自治体は汲々としているわけですが、まさにターニングポイントでもあると思います。
問題が全国の自治体でぶちあがっている今こそ、将来を見据えた、持続可能な公共空間づくりが必要になります。
ところがここが悩ましいところなのですが、国政にしろ地方政治にしろ、彼ら官憲に任すと大抵がとんでもないことになるわけです。
そうならないためには、住人や民間企業も含め、いろいろな目線を絡めて物事を進めていくことが欠かせないでしょう。
そして、前置きが非常に長くなってしまったのですが、本書『公共R不動産のプロジェクトスタディ』は、そうした「未来のまちづくりを皆で共有して行こう」というテーマを(おそらく)含んでおり、自治体やまちづくり関係の人だけでなく、さまざまな人が目を通す価値がある本になっています。
▼現実は大変だけども、よいまちづくりはいろんな人の熱意から
もちろん現実は難しい部分もあります。
きちんと住民の声を聞く自治体もあれば、行政主導で勝手に進める自治体も現実にはあります(後者は本当はあってはならぬことです) 。
特に、後者のような自治体と正攻法でアクションを起こそうと思った場合、彼らをハンドリングするのは並大抵のスキルでは出来ません。
というのも、彼らのほとんどが「現状維持できないと死ぬ奇病」という風土病に罹患しているので、彼らのケアをしながら物事を進めるという、Very Hardモードの苦行が待っているからです。
一応、本書でも、そういう場合は、「勝手に物事を始めちゃう」「試行でやっていく」とかさまざまなテクニックが記載されているので、アクションを起こしたい社会起業家、はたまた自治体内部の実務家にとっても学ぶべき部分があります。
いろいろ壁はありますが、結局、「何がしたいか」という熱意が大事なんでしょうね。
起点はいつもそこからだと思います。
まぁまぁ、ともあれ、この本を読んでみて、自分が住んでいる街で、自分がどんな暮らしをしていきたいか、という想像をいろんな人が膨らましてくれると嬉しいですね(作者の言みたいになってしまいました)。
面白い本でした。
読み返すと、書評というよりも雑記になっていました。。。
了

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