読みました。
ハンナ・アーレントの思想の概要、それも全体主義についての考察のみを簡単にまとめた入門書です。
以下、備忘録的にやや詳細ネタバレ。
▼本書の概要
アーレントの原著にあたったことがないような人にも分かりやすい、平易な文章で書かれているので、アーレント、というか全体主義の起源について知りたい、という人には良い本だと思います。
ただし、アーレントは歴史、哲学、文芸と縦横無尽に話題を引っ張ってくるので、原著が難解だといわれます。その傾向は解説書でもある本作にも若干ではありますが見られます。
個人的考察を交え、内容をまとめていきます。
▼第一章『ユダヤ人という「内なる異分子」』
第一章は全体主義の起源の起源。
いかにしてユダヤ人嫌悪が起こったかを解き明かす章です。
ざっくりまとめれば、ヨーロッパに於いて、ナポレオンという人物を契機に、絶対君主制から国民国家(ex.日本とかアメリカとか)への体制の移行が起こります。
ナポレオン(フランス)という強敵を相手にするために、ヨーロッパ各国では国民の団結が必要になりました。
その過程で、ユダヤ人解放令などが出され、いつの世も流浪の民であったユダヤ人を国家に取り込みます。
ところが、もともと嫌悪の感情があるので、さまざま出来事をきっかけに、再びユダヤ人は排斥され始め、後々のナチスによる蛮行に繋がります。
という内容です。
ここでは、集団という存在を動かし続けるには、仮想敵、共通の敵というエンジンを人間は必要とすることが分かります。
それが歴史的にはたまたまユダヤ人だったというだけです。
▼第2章『「人種思想」は帝国主義から生まれた』
第二章は人種思想が如何にして生まれたか。
同一性を重視する国民国家の設立をきっかけに、近代帝国主義が花開きます。
ところが、ローマ帝国を仮に法と統治を主眼としたピュアな帝国主義だとすると、現代の帝国主義は国民国家とのハイブリッド。
出自が違うため、本質的に相容れないものです(同一性を重視するので、当然、侵略先の国民とは交わりません。従って市民権も与えず、ただ圧政を施すのみ。)
そうして排他的な侵略が行われる中で、人種思想、国民意識が醸成されてきます。
ドイツでもそうした流れを汲んで、民族的ナショナリズムが起こります。「ドイツ国民」であることではなく、「ドイツ民族の血を引いているかどうか」を重視する運動です。
民族という曖昧なものではなく、血という尺度を持ち出したわけです。
それらが海外帝国主義によって生まれた人種思想、進化論、優生思想、そして過去のユダヤ人との軋轢が複雑に織り込まれていった結果、ナチスドイツ(全体主義)へとつながっていきます。
ナチスドイツ(全体主義)への移行の過程でアーレントが注目したのは、無国籍者でした。
これは、迫害を受け、自身も無国籍者に類するものであった経験からくるものです。
各地での戦争から生まれた無国籍者(または難民)には、ヨーロッパの国民国家で当たり前だった人権が適用されません。
人権を保障するのは、その人の属する国家であり、その国家がなければ、人権など妄想でしかなかったわけです。
人権こそ普遍的な権利と信じ切っていたヨーロッパの人々に大きな衝撃を与えます。
つまり、人権が適用されない眼前の無国籍者と、一歩間違えば自身の人権すら危ういことを勘案すると、これまで是としてきた法による支配が非常に脆弱なものであることが明らかになってしまいました。
これが、法「以外」による国家統治即ち全体主義へとつながるとアーレントは指摘します。
こうして第一章、第二章を一言でまとめると、「同一性の飽くなき追求(とそれによる排他)」と言ってもいいかもしれません。
どちらかと言えば、理性というより、生理。生存本能に近い思考があるように思うのですが、そうした思考が近代の帝国主義や資本主義など、時代の流れと絡まり合って、ナチスドイツのような惨禍に繋がったと考えることができるでしょう。
しかし、近代を見ても、そうした血や民族による同一性の思考を乗り切れていないのが事実ですね。
▼第三章『大衆は「世界観」を欲望する』
第三章の要旨は、まとめると、「階級社会がなくなり、大衆の誕生により、人々が流されやすくなった、ないしは支配者によるコントロールが簡単になった」ということです。
ドイツにおいては、第一次世界大戦の敗戦後、未来の展望を描くことのできなかったワイマール政権に対し、ナチスドイツが強いリーダーシップと嘘にまみれた将来図を提示します。
緊張感や不安が強まったとき、人々は救済の物語を希求します。これらがピタリとハマったわけです。
ナチス迫害の中で、人を簡単に「殺せる」ということよりも、「いなかったことにできる」という恐ろしさをアーレントは強調していることも補足しておきます。
ある程度のプロパガンダ的なメソッドを以て、大衆はコントロールができます。これがナチスの全体主義に繋がったという内容です。
もちろん、これは現代社会にも通用するとアーレントは指摘しており、誠に耳の痛い話です。
というわけで三章にかけて、全体主義の誕生を追いかけていきました。
▼第四章『「凡庸」な悪の正体』
そして第四章は、アイヒマン裁判の件。
ここでは、その全体主義の中で行われた「悪」の本質についての考察がなされていきます。
ナチスの大量虐殺を支持したアイヒマンが、裁判という蓋を開けてみると、ただの小役人で、上の命令に淡々と従っただけ、という事実をアーレントは知ります。アーレント、ひいてはユダヤ人としては、アイヒマンは凶悪で残忍で無慈悲な悪を凝縮したような人物像であって欲しかったのです。
このことを知り、アーレント自身も一瞬、振り上げた拳の置きどころが無くなりますが、感情に飲まれることなく哲学者として非常に冷静な分析を行います。
しかし冷静すぎる分析が、感情に動かされる大衆の批判を呼んでしまいます。
アーレントに降りかかった出来事はさておき、アイヒマンは、ユダヤ人迫害に情熱を燃やす訳でもなく、とにかく上の命令に従ったことにアーレントは注目します。
これを、彼女は「無思想性」と表現しました。
そして、これと対極にあるのが複数性。
全体主義は、個を排し全体一個を追求する思想ですから、複数性こそ、全体主義という構造に穴を開けるツールとなるとアーレントは考えました。
アイヒマン裁判におけるアーレントの重要な主張は、悪というものは、巨大で歪な黒黒としたものだけではなく、アイヒマンのようなチンケな小役人による無思想性でも行われ得るということです。
そして、この延長線上に、我々大衆の思考停止、無思想があります。
つまり、一見して穏健そうな大衆からも悪は生まれ得るのであり、それを乗り越えるには前述の複数性を担保しながら、大衆とは縁を切って思考し続ける、というアプローチが必要になる。そんなメッセージを送っているのではないか。
そんなことが語られます。
▼終章『「人間」であるために』
終章「人間」であるために、では、これまでのまとめと、アーレントの有名な著者である「人間の条件」についてサラリと触れられて居ますが、本当に触りだけ。
雑にまとめてしまえば、前述の複数性をキーに、我々の思考をアップデートしよう的なことが、著者の言葉を交えて語られます。
よくビジネスの現場で言われるように、多様性こそイノベーションの種となります。
アーレントの考察は、現代(と言ってもそんなに古い人ではないですが…)にも通づる部分がたくさんありますが、変にアーレントの議論を援用することは、彼女の主張を矮小化することにも繋がる危険があるような気がします。
少なからず、本書の種本である「全体主義の起源」に於いて、アーレントは触れてないわけで。。
で、最後まで読み終えて、この本、NHKの『100分で名著』を再編集したものと分かりました。
そのせいでこんなオチが用意されたのだな、と理解しました。
いずれにせよ、私のような初学者でもアーレントの思想(と呼べる部分は本著に少ないのですが)に気軽に触れられるのは良いと思います。
まずは手始めにどうぞ。
了