シコウノイッタン

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【書評】『悪と全体主義―ハンナ・アーレントから考える』~100分de名著?

 

 
読みました。
ハンナ・アーレントの思想の概要、それも全体主義についての考察のみを簡単にまとめた入門書です。

 

以下、備忘録的にやや詳細ネタバレ。

 

 

▼本書の概要


アーレントの原著にあたったことがないような人にも分かりやすい、平易な文章で書かれているので、アーレント、というか全体主義の起源について知りたい、という人には良い本だと思います。
ただし、アーレントは歴史、哲学、文芸と縦横無尽に話題を引っ張ってくるので、原著が難解だといわれます。その傾向は解説書でもある本作にも若干ではありますが見られます。
個人的考察を交え、内容をまとめていきます。

▼第一章『ユダヤ人という「内なる異分子」』


第一章は全体主義の起源の起源。
いかにしてユダヤ人嫌悪が起こったかを解き明かす章です。
ざっくりまとめれば、ヨーロッパに於いて、ナポレオンという人物を契機に、絶対君主制から国民国家(ex.日本とかアメリカとか)への体制の移行が起こります。

ナポレオン(フランス)という強敵を相手にするために、ヨーロッパ各国では国民の団結が必要になりました。
その過程で、ユダヤ人解放令などが出され、いつの世も流浪の民であったユダヤ人を国家に取り込みます。
ところが、もともと嫌悪の感情があるので、さまざま出来事をきっかけに、再びユダヤ人は排斥され始め、後々のナチスによる蛮行に繋がります。

という内容です。
ここでは、集団という存在を動かし続けるには、仮想敵、共通の敵というエンジンを人間は必要とすることが分かります。
それが歴史的にはたまたまユダヤ人だったというだけです。

 

▼第2章『「人種思想」は帝国主義から生まれた』


第二章は人種思想が如何にして生まれたか。
同一性を重視する国民国家の設立をきっかけに、近代帝国主義が花開きます。
ところが、ローマ帝国を仮に法と統治を主眼としたピュアな帝国主義だとすると、現代の帝国主義国民国家とのハイブリッド。
出自が違うため、本質的に相容れないものです(同一性を重視するので、当然、侵略先の国民とは交わりません。従って市民権も与えず、ただ圧政を施すのみ。)

そうして排他的な侵略が行われる中で、人種思想、国民意識が醸成されてきます。

ドイツでもそうした流れを汲んで、民族的ナショナリズムが起こります。「ドイツ国民」であることではなく、「ドイツ民族の血を引いているかどうか」を重視する運動です。
民族という曖昧なものではなく、血という尺度を持ち出したわけです。

それらが海外帝国主義によって生まれた人種思想、進化論、優生思想、そして過去のユダヤ人との軋轢が複雑に織り込まれていった結果、ナチスドイツ(全体主義)へとつながっていきます。

ナチスドイツ(全体主義)への移行の過程でアーレントが注目したのは、無国籍者でした。
これは、迫害を受け、自身も無国籍者に類するものであった経験からくるものです。
各地での戦争から生まれた無国籍者(または難民)には、ヨーロッパの国民国家で当たり前だった人権が適用されません。
人権を保障するのは、その人の属する国家であり、その国家がなければ、人権など妄想でしかなかったわけです。
人権こそ普遍的な権利と信じ切っていたヨーロッパの人々に大きな衝撃を与えます。

つまり、人権が適用されない眼前の無国籍者と、一歩間違えば自身の人権すら危ういことを勘案すると、これまで是としてきた法による支配が非常に脆弱なものであることが明らかになってしまいました。

これが、法「以外」による国家統治即ち全体主義へとつながるとアーレントは指摘します。

こうして第一章、第二章を一言でまとめると、「同一性の飽くなき追求(とそれによる排他)」と言ってもいいかもしれません。

どちらかと言えば、理性というより、生理。生存本能に近い思考があるように思うのですが、そうした思考が近代の帝国主義や資本主義など、時代の流れと絡まり合って、ナチスドイツのような惨禍に繋がったと考えることができるでしょう。

しかし、近代を見ても、そうした血や民族による同一性の思考を乗り切れていないのが事実ですね。

 

▼第三章『大衆は「世界観」を欲望する』


第三章の要旨は、まとめると、「階級社会がなくなり、大衆の誕生により、人々が流されやすくなった、ないしは支配者によるコントロールが簡単になった」ということです。

ドイツにおいては、第一次世界大戦の敗戦後、未来の展望を描くことのできなかったワイマール政権に対し、ナチスドイツが強いリーダーシップと嘘にまみれた将来図を提示します。
緊張感や不安が強まったとき、人々は救済の物語を希求します。これらがピタリとハマったわけです。
ナチス迫害の中で、人を簡単に「殺せる」ということよりも、「いなかったことにできる」という恐ろしさをアーレントは強調していることも補足しておきます。

ある程度のプロパガンダ的なメソッドを以て、大衆はコントロールができます。これがナチス全体主義に繋がったという内容です。

もちろん、これは現代社会にも通用するとアーレントは指摘しており、誠に耳の痛い話です。

というわけで三章にかけて、全体主義の誕生を追いかけていきました。

 

▼第四章『「凡庸」な悪の正体』

そして第四章は、アイヒマン裁判の件。
ここでは、その全体主義の中で行われた「悪」の本質についての考察がなされていきます。

ナチスの大量虐殺を支持したアイヒマンが、裁判という蓋を開けてみると、ただの小役人で、上の命令に淡々と従っただけ、という事実をアーレントは知ります。アーレント、ひいてはユダヤ人としては、アイヒマンは凶悪で残忍で無慈悲な悪を凝縮したような人物像であって欲しかったのです。

このことを知り、アーレント自身も一瞬、振り上げた拳の置きどころが無くなりますが、感情に飲まれることなく哲学者として非常に冷静な分析を行います。
しかし冷静すぎる分析が、感情に動かされる大衆の批判を呼んでしまいます。

アーレントに降りかかった出来事はさておき、アイヒマンは、ユダヤ人迫害に情熱を燃やす訳でもなく、とにかく上の命令に従ったことにアーレントは注目します。
これを、彼女は「無思想性」と表現しました。

そして、これと対極にあるのが複数性。
全体主義は、個を排し全体一個を追求する思想ですから、複数性こそ、全体主義という構造に穴を開けるツールとなるとアーレントは考えました。


アイヒマン裁判におけるアーレントの重要な主張は、悪というものは、巨大で歪な黒黒としたものだけではなく、アイヒマンのようなチンケな小役人による無思想性でも行われ得るということです。

そして、この延長線上に、我々大衆の思考停止、無思想があります。
つまり、一見して穏健そうな大衆からも悪は生まれ得るのであり、それを乗り越えるには前述の複数性を担保しながら、大衆とは縁を切って思考し続ける、というアプローチが必要になる。そんなメッセージを送っているのではないか。
そんなことが語られます。

 

▼終章『「人間」であるために』


終章「人間」であるために、では、これまでのまとめと、アーレントの有名な著者である「人間の条件」についてサラリと触れられて居ますが、本当に触りだけ。

雑にまとめてしまえば、前述の複数性をキーに、我々の思考をアップデートしよう的なことが、著者の言葉を交えて語られます。



よくビジネスの現場で言われるように、多様性こそイノベーションの種となります。
アーレントの考察は、現代(と言ってもそんなに古い人ではないですが…)にも通づる部分がたくさんありますが、変にアーレントの議論を援用することは、彼女の主張を矮小化することにも繋がる危険があるような気がします。


少なからず、本書の種本である「全体主義の起源」に於いて、アーレントは触れてないわけで。。

で、最後まで読み終えて、この本、NHKの『100分で名著』を再編集したものと分かりました。
そのせいでこんなオチが用意されたのだな、と理解しました。

いずれにせよ、私のような初学者でもアーレントの思想(と呼べる部分は本著に少ないのですが)に気軽に触れられるのは良いと思います。

まずは手始めにどうぞ。




 

 

【書評】『戦後補償裁判 民間人たちの終わらない「戦争」』~いろいろ事情はあるけれど~

 

 読みました。
良書だったような気がします。

 

 

▼本の概要


本の中身をざっくりまとめると……


太平洋戦争後、日本は、軍人・軍属など国家の関係者に対しては戦争における被害の補償をしてきた。
一方、戦争に巻き込まれた民間人には手厚い補償をしてこなかった。
それは、「みんなが苦労したんだから、みんなで我慢しようよ」という「受忍論」に基づく考えだ。

しかし、国家が勝手に始めた戦争で被害を受けた無辜の民に対して、補償を(ほとんど)しない、我慢しろ、というのは果たして正しいことなのか。
軍に属していた、していなかったの違いで、受けられる補償に天と地ほどの差があるのは差別ではないのか。理不尽ではないか。
このことを巡って、戦後、数々の訴訟が繰り広げられてきた。

しかし、ほぼすべての訴訟において、前述の受忍論という印籠がかざされ、民間人に対して手厚い補償が実施されることはなかった。
戦後の立法府は救済をする気がない。その立法府の不作為を訴えるために裁判をしているのに、司法は「立法の裁量でやるものだ」、と責任をかわす裁判がひたすら続いた。そして、原告は今日に至るまで負け続けている。

ただし、近年は少しづつではあるが、補償の対象が拡がりつつある。とはいえ、被害者たちの望むものには遠く及ばないものではあるが。

戦後70年以上が経過し、当事者はどんどんと鬼籍に入りつつある。
当事者が加速度的に亡くなりつつある今だからこそ、戦争被害における補償をしっかりと見つめなおす必要がある。

なぜなら、この先もし国家が戦争に踏み出したら、民間人に対する補償問題をまたも繰り返しかねないからだ。

 

…と、まとめるとおおむねこんな感じです。

▼簡単な感想


戦後、国家が民間人に補償をしなかったの財政的な理由と、選別の問題があるのでしょうね。
どこまでが戦争の被害者なのかを見定めることが不可能だった。だから、軍関係者、というラインに線を引いたのは想像に難くないですね。

官僚の立場に立てば仕方がない話で、当事者としたらとんでもない話になる。
この辺の隔たりは客観的に見ても容易に埋まるものではないですね。
私も行政側の人間として、線を引くことの致し方なさが理解できなくもないです。

ただ、これまで補償を跳ねのけてきた国家の言い分が正直言って、かなり苦しいのも事実。今の国会ののらりくらりとした運営もそうですが、政治の本質というものは残念ながら変わることがないのだと痛感しました。
それ故に、訴訟で揉めに揉めたわけです。

まぁそれはともあれ、戦争の補償を巡った動きは「あの戦争」についての補償だけでなく、「これからの戦争」についての補償にも関係するかもしれません。
そうした意味で、今苦しんでいる人たちは、私たちにも決して無関係ではない、ということを本書は教えてくれます。

(もちろん、メインの主題は民間人に補償がされない現実を伝えることなのですが)


本書は「当事者側からの主張のみが一方的に展開されている」という批判もできなくはなさそうなのですが、良い悪いではなく、一つの側面からの事実として知っておくべき内容が詰まった本だと思います。

まぁ自分が民間人として被害を受けたらちゃんと補償して欲しいよね、っていうのは当たり前の感情でしょう。

これから補償問題はどこに落着点を見出すのでしょうか。
当事者がいなくなったら、それでおしまいになるのでしょうか。
少し興味深く見守っていこうと思います。

さて、雑に書いているのでまとまりがありませんが、非常に勉強になる良い本でした。

 

 

 

 

【映画】『男はつらいよ お帰り 寅さん』〜そして、さよなら、寅さん〜


映画『男はつらいよ お帰り 寅さん』予告映像

【目次】

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▼ついに寅さんが帰ってきた?

見てきました。
思ったことをつらつらと。
公開中の作品なので詳しく内容には触れませんが、察しの良い人は筋が分かってしまうかもしれませんのでご注意ください。

▼超ざっくりあらすじ

第48作『男はつらいよ 紅の花』から、数十年。
みな、それぞれ歳を重ねた「今」が舞台。
小説家になった満男が、初恋の人・泉と再会する、というのが話のメインとなります。

▼ある意味、安定のいつもの「男はつらいよ

イベントで、山田監督が「僕も当初、思ってもいない、なんとも不思議な物語が出来た。知らぬ間にこんな展開になっちゃった」と語っていましたので、今作はそれなりにヒネった話を想定していました。

しかし、蓋を開けてみれば、「これ以外の解はないよね」というオーソドックスなものであったような気がします。

そして、このオーソドックスさが曲者です。

劇中、これまでの名場面が、現代の風景とところどころクロスオーバーします。
このクロスオーバーにやられて、私は何回も涙してしまいましたが、逆を言うと、寅さんを知らない人がこの作品を見るのは結構ハードルが高いような気がする。

私は、さくらが何回も寅さんを見送った柴又駅の現代と過去が重なる場面で、特に涙してしまいましたが、思い入れのない人にはちょっと理解不能でしょうね。

▼非常に良かった経年感と描写

内容はとかく、いろんな人が歳をとって、それも妙にリアルな歳のとり方(体型の崩れとか)をしていることに、ファンの感情は様々な形で揺さぶられることでしょう。
でもあの描き方は良かった。

そして、とらやも満男の家も、どの舞台も小汚く(褒め言葉)、人の息の通った、生生しさがあって、あれも良かった。

そこに不可逆で時に残酷な時間の重みを感じることができたから。

(個人的には、三平ちゃんが、今もシュッとしてて素敵だなぁと思いました。)

でも、それも結局シリーズ全部見てるから感じる感想で、人によっては『家族はつらいよ』と何が違うのよ?といわれてしまうかもしれない。

▼そして、『男はつらいよ』は完結した。

多くのことが描かれません。
亡くなってしまった人、居なくなってしまった人(あと、キャスティングに変更のあった寺尾聰…)、そこには沢山の「隙間」が開いています。

我々にできるのは、そのあえて開けられた「隙間」に想像力を詰め込んで、「男はつらいよ」という作品を、それぞれの解釈で完結させていくことだけです。


でも、これで本当に最後だと思うと、寂しい。
あのヒーローであり、アンチヒーローでもあり、トラブルメーカーでもあり、ときにロマンティストであり、我々を笑いと冷笑と苦笑に包みながら、そして、それでもまた「会いたい」と思わせてくれる寅さんが居なくなってしまったことがこの上なく悲しい。


今日は徳永英明を聞こう。

了。

【書評】『闇の奥』ゴタゴタ言わず闇に触れよう

 

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

 

 読みました。

 

 ▼『地獄の黙示録』の元ネタ小説

ジョセフ・コンラッドの有名な作品。
地獄の黙示録の元ネタとしても有名ですね。

評価の分かれる作品のようですが、個人的には非常に刺激的で面白い作品だと思います。

 

▼『闇の奥』あらすじ(ネタバレあり) 

アフリカ大陸が暗黒大陸と呼ばれていた時代。
船乗り・マーロウは、象牙を取り扱う商社の船乗りとして従事(アルバイト)することになります。
マーロウのミッションは、象牙集めが上手いのだけど、ちょっとした問題のある商社社員クルツを連れ帰ること。
クルツは、コンゴのジャングルの奥地の支社から出てこないのです。
というのも、クルツは象牙に魅せられた結果、現地人を従え、自らの王国をジャングルの奥深くに作っていたからです。

そこで、河を遡上しながらマーロウは旅をします。
道中、危険な目にあったり、仲間が死んだりしながらも、なんとか狂気に満ち、そして掴みどころのない闇を抱えたクルツと会います。
そして、マーロウはクルツを連れ帰ることに成功します。

しかし、その時、すでに病気にかかっていたクルツは、蝋燭のみが灯る暗い船室で、「恐ろしい! 恐ろしい!」と、なんとも意味深な言葉を残して死んでしまいます。

一体、クルツの言いたかったこととは何なのか。

底知れぬ闇との出会い、そして突然の別れは、マーロウにモヤモヤを残します。

その後、ミッションを終えたマーロウは、クルツの遺品や記憶をクルツの婚約者などに配り歩き、クルツという人間の記憶を残そうとする。
マーロウも知らぬ間に、クルツに魅せられ、クルツという人間を何らかの形で残そうと思ったのでした。

そして、今や老マーロウとなった彼は、その過去の顛末を仲間の船乗りたちに聞かせ、再び口を閉じるのでした。

 ▼『闇の奥』をどう読むか?

この作品は、未開文明に対する西洋人の横暴の書である、とか、アンチテーゼだとか、そういった見方がされます。それは概ね間違いではないと思います。
ただ、それらのテーマはすでに語り尽くされており、現代に於いてそうした視点から読むことは、骨董品を愛でるがごとく、もはやあまり意味を成さないと思います。

個人的に注目すべくは、コンラッドが描いた人間の底知れぬ心の闇、もっと言えば欲望の歪さ。そして、それを巧みに描出しきったことではないかと思います。

読めば分かりますが、クルツの狂気は、意味不明です(それが狂気というものですが)。
そして、その得体のしれない狂気に、現地人を含め、多くの人々が魅せられ、ジャングルの奥地という舞台に吸い寄せられてくる。
それはマーロウも同じです。
クルツの持つ狂気に、マーロウ(一般の人間)の心が呼応するのです。
狂気がさらなる狂気を呼び、舞台の上でシナジーを作り出す。

用意された小道具はある種、荒唐無稽でありながら、それでも人間の底知れぬ、心の闇深さが、じっくりねっとりと、比喩や時折ジョークのような余裕を噛ませながら描かれます。

その得体の知れない「訳が分からない」感覚こそ、コンラッドの描きたい「闇」なのではないか、と私は思います。


▼輪郭をぼかされた物語

 そして、私がなによりもこの本でいいなぁと思ったのは、すべての輪郭がぼやけていることです。
それは、登場人物であり、風景の描写であり、物語の筋でもある。
すべてのものが闇に溶けていきます。
それはときに具体的な描写として。
ときに描写しないという方法で。

読み終えて、「一体これはどういうことだ」と殆どの人が思うでしょう。
それこそが、本書の魅力のような気がします。

 

※ちなみに、光文社古典新約文庫は、非常に読みやすくなっていますので、手に取りやすいと思います。おすすめです! 

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

 

 了

【映画】『地獄の黙示録』は面白い映画なのか?


町山智浩氏が語る20世紀名作映画講座「地獄の黙示録」前編


見ました。
映画史に残る作品なので、内容についてはわざわざ多く語る必要もないですね。
町山さんの動画を見ましょう。

ここでは、ちょっと思ったことを書き残します。

[目次]

 

▼『地獄の黙示録』は面白い映画か?


さて、正直面白い映画かと言われると、面白くはないと思います。考えさせられるけど、面白くはない。
前半はスリリングだし、戦争の狂気が視聴者に伝わってきていい感じです。
しかし後半、カーツ大佐と対峙するあたりからは混沌としてきて、前半の分かりやすさと比較して分かりにくい展開になるので、決して見て「面白かったー」と手放しで言えない複雑さがある作品ですね。



▼映像の裏に隠されているものは真実か

映画でもなんでも、批評をするときに、我々は「このシーンにはどういう意図が隠されていて…」「ここでコッポラが表現したかったのはこれこれで…」と、とかくその背後にあるものを語りたがります。
そして、それを正確に言い当てた者が、「批評」というゲームの勝者になれます。

そうした意味では、我々はなかなか純粋な「映像体験」として映画を見ることは難しく、「映像を見ているようでそこに見えていない部分を見ようとする」、という不可思議な現象を経験していることになります。

それは現代人が取り外すことのできない「知の枠組み」なので、我々は否応なしにそのゲームに巻き込まれることになるのですが、果たして、そのゲームを超えて映画というものを見つめていくことが可能なのか?

そのゲームに乗っかることが正しいのか?

 

この『地獄の黙示録』を見て、そんな思いが強くなりました。

▼分解したがりな時代

現代人はとかく作品を分解したがりますが、そうした思考の枠組みには極力抗ったほうが良い、と私は思います。もっと言えば、映画を見るにはもっと自由でいいはず。


もちろん言葉で語られていないものも作品の中にはたくさんあるし、意図して隠された真実があることもあるでしょう。


ただそれらをすべてテストのように血眼になって答え合わせをしようとする姿勢は単純に疲れちゃう。そして、それでも意味のわからなかったシーンをネットで調べちゃうのは、私自身も囚われの身だからでしょうね。

畜生。

地獄の黙示録』を見終わって、私が思ったのはそんなことでした。(続けて見た『ディア・ハンター』もまったく同じだった。)

最後になりますが種本である、ジョセフ・コンラッドの「闇の奥」は面白いです。

 

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

 

 
おすすめです!

 

了。

「落語とトークと寅次郎」映画『男はつらいよ』50周年記念特別公演 にいってきました。@よみうり

https://www.cinemaclassics.jp/tora-san/news/1473/

 

 

行きました!

育児が忙しすぎてまったく日記を書かずにいましたが、久々に。

 

▼今年は『男はつらいよ』50周年イヤー

今年は50周年ということでいろいろイベントや企画が目白押し。
映画も年末公開ですね。
寅さんなき今としては、見たいやら見たくないやら、正直、そんな心境です。

まぁまぁともあれ、表題のイベントに行ってきたんですが、大満足でした。

 

会の流れは…

・玉川大福さん(全部敬称は「さん」に統一)による『男はつらいよ浪曲(←面白かった)
柳亭小痴楽さんによる落語一席(←湯屋番でした。若旦那が似合ってた。)
立川志らくさんによる落語一席(←紺屋高尾)

そして、山田洋次監督、倍賞千恵子さん、柳家小三治さん、立川志らくさんによるトークセッションという流れ。


▼圧巻の「間」の支配力

久々の生・小三治師匠(あっ)でしたが、たくさん笑わせてもらいました。
正直、言葉だけ見ると、そんなに面白いこと言っていないんですけどね。なぜかあの方が話すと皆が笑ってしまう。
欲を言えば、落語を聞きたかったのですが、それでも、噺家としての芸の神髄を見せてもらったような気がしました。

あとは監督による映画論とか、映画にまつわる思い出とか、御前様の演技(上手ではないけど、他を喰ってしまう演技)についてとか、笑いっぱなし、夢のような時間でしたね。渥美清さんの話題が少なかったのは少し残念でしたが。

無茶ぶりで倍賞さんは「下町の太陽」のアカペラを(しかも小三治師匠とのデュエット!)披露させられたり、和気あいあいとした一時間弱のセッションでした。

縦横無尽にトークをかき乱す小三治師匠に、志らくさんもタジタジだったのも面白かった。

あぁ、久々に寄席にいきたい。。。。


…というテンション上がりすぎて、小学生の感想文のようになってしまいましたが、久々に以上です。

 

【ドキュメンタリー】『メリエム』〜ショートショート フィルムフェスティバル & アジア 2018ノンフィクション部門最優秀賞〜凄いもん見た

original.yahoo.co.jp

 

▼あらすじ

自由のため、イスラム過激派と戦う女性たち
シリア北部で勃発したコバニ包囲戦。イスラム過激派組織との戦いの中心に女性たちがいた。強靭な精神力をもとに、彼女たちは自由のための戦いに挑み続ける。

▼凄いもん見た

見ました。
すごい映像を見た、というのが一番の感想。

何が凄いのか?

女性兵士たちは皆、生と死が交錯する場でヘラヘラしている。
なにかこう、近所で井戸端会議をしているような独特の緩さがある。。
しかし、その緩みは、ひょっとすると緊張に対する緩和剤なのかもしれないと考えると胸が痛む。


戦場には色がない。
焼け焦げた死体は、我々が想像する遺体と同じ像を結ばない。
まるで瓦礫の一部のようだ。

そうした瓦礫とかしたものに、一瞥もくれず去っていく女性兵士たち。
カメラマンの打算だけが、其の画を捉えようとしている。
その対比は、当事者と非当事者に痛烈に線を引く。


一方で、若き女性兵士は「たくさんの仲間が死んだ」と涙を流す。
それを歴戦の勇士・メリエムは、「負けちゃだめ」と励ます。
「何に」負けて、「何に」買って、その勝敗の果てに「何が」あるのだろうか?
一族、民族、国家の末端として、極めて冷徹に敵を倒すことを追求するメリエムの姿に、鳥肌がたつ。

▼ハエを振り払うことで私達と戦場がつながる

映像の途中、メリエムの頬にハエが止まるシーンがあった。
私は、彼女にハエを振り払ってほしくなかった。

止まったハエを追い払うという「普通」の行為を「しない」ことで、メリエムと「我々」は違う生き物である、ということを、心の奥底で再確認したかったのだと思う。

しかし、彼女はハエをこともなげに振り払う。
その瞬間、我々とメリエムに橋がかかる。

映像に映る戦場が、私達とリンクしていくのを感じた。
戦闘機の爆撃で、ハリウッド映画のそれとは違う爆炎が天高く登り、映像は終わる。

16分弱の強烈な体験。