一公務員ひとりごち
まちづくり(何を持ってまちづくりと言うかはとかく)の仕事をしていると、なかなか課題が多くて嫌になることが多い。
正直、あまり合理的に出来ていない組織だし、ミッションも幅広いので、どうも迷走してる感は出てくる。
万人のための仕事は玉虫色になってしまい、往々にして万人のためにならない、というパラドクスが蔓延している。
まぁともあれ人口減少社会である。
どこの自治体も人口減少対策に本腰を入れ始めている。
構造主義を最近読みかじっているので、そんなアプローチから人口減少を見ると、モースの贈与論のように、交換が成立していないから、人口が減ってしまうように思う。
贈っては、贈られる、というサイクルを連綿と繋げていくこと。これがまちづくりの1つの指針になる(気がする)。
価値の提供と、それを送り返すシステムの構築。(システムというよりも信頼関係のような気がするが)
無辜の尽きることない愛情を街に注ぐ人など、そうたくさんはいない。
もっと街を、システマチックに俯瞰しながら、暖かいまちづくりをしていきたい、と末端に立つものとして思う、今日この頃。
まぁ現実は、チョムスキーのメディア、政治批判の通りではあるけど。
Kindleペーパーホワイトのカバーを作ろう
最近の読書はもっぱらKindleに移行しつつあります。
物を増やすなという命により、電子書籍を買っている次第ではありますが。
で、持ち運びの際、液晶を保護するため手帳型カバーをつけているのですが、これがマグネットが入ってたりして重い。
でかくなるし、片手では読みづらくなる。
Kindleの軽量さが台無しです。
ところが良さげなスリーブを探してもあんまり売ってないのです。
なので、作ることにしました。
最初はスリーブにしようと思っていたのですが、手縫いはだるいし、何か面白さに欠けるので、一枚革で「包む」というデザインにしました。
ハトメだけで済むし。。。
そして、電子書籍をブックカバー(のようなもの)で包むという皮肉が効いていて、一人ほくそ笑んでいるところです。
Kindleは背面がラバーコーティングなので、包むだけでも案外滑りません。
しかもどっちからでも入れられて、何かお洒落。
実用新案登録を申請中です(嘘)
それではさようなら。
都民寄席雑記(3月8日西国分寺いずみホール)
都民寄席に行ってきました。
毎年この時期は無料で落語が聞けるので、わくわくしてます。
噺家さんも、無料をネタによく観客をいじります。とはいえ、税金納めてるし、落語の間口を拡げるには良い機会だと考えてます。
最近は寄席も若い人が増えたなんて聞きます(まぁ私も30前半なんで若いと言えなくもないのですが)。
確かに末広亭なんかに足を運ぶと、うら若き乙女が散見されますね。まぁぶっちゃけまだまだジジババばかりですけど(笑)
で、都民寄席はもっと高齢化率が高い。日本の縮図を見るようです。
行政の事業の哀しきかな。アッピールが下手で、若者が知らないんでしょうね。これから東京都文化局の頑張りに期待です。
都民寄席の方はっていうと、
三遊亭笑遊師匠による「片棒」
春風亭一朝師匠の「妾馬」
あと色物さんでした。
多分、お客さんは色物さんが珍しかったみたいで、1番湧いてましたね。
肝心の落語は、最高でした。
片棒は、笑遊師匠のダイナミズムと張りのある声で圧倒されました。
妾馬は立て板に水っていうキレのある内容。
妾馬は笑いの場面が多いですが、八五郎が妹や母を思う場面など、人間の感情の様々が詰まった演目ですね。それだけに難しい内容だなぁとシミジミ感じました。
途中の「殿公」でサゲることが多い大ネタですが、一度フルで聞いてみたい。
以上のように雑記です。
構造主義から見る落語
すんごい不精をしていました。
引越しをしたりいろいろバタバタしていたせいではあるのですが。
渋谷が近くなったので、いつかシブラクに行ってみたいのですが、若い女の子とかがいっぱい居そうな(偏見)感じで、おじさんはなんとなしに末廣亭に足を運んでしまうのです。
ところで、最近、構造主義について聞きかじっています。
もともと、私の思考方法は別に勉強したわけではなかったのですが、構造主義的な部分があって、いわゆる構造主義入門書を読んだところ、「これ、俺が今まで考えてきたことそのまんまじゃん!」ってな驚天動地の発見を得て嬉々としているのでございます。
まぁそもそも、同種の考え方をしている時点で、すでに構造主義的の迷宮から抜け出せない無限ループなのですが、その辺はニーチェの言う立派な「畜群」の一人として、立派に右に倣えをしていきたいと考えています。
まぁそんなことはどうでも良くて、落語というのも技芸ですから、構造を持っています。
さまざまなギミックの部分は立川談志師匠の「現代落語論」とかが、立派に論じておられるとは思いますが、構造主義的な視座から落語を語るとどうなるのか?
例えば、「間」。
これをどう読み解いていくのか?
なんだかすごく楽しそうで、これから考えていこうかと思っている最中です。
というわけで、表題はただの意思表明というか思いつきなのです。
今日も落ちません。
立川笑二さんは猛毒?
男の隠れ家で落語特集でございます。
稀有なのは(最近はそうでもないですが)二つ目にフォーカスしてる所でしょうか。
先日のダイヤモンドもそうでしたが、ここまで来ると、表題のとおり「落語の黄金時代ここに極まれり」という感が出てきます。
多くの方が望む通り、これが一過性のブームでなく文化の定着になればと思います。
別に入り口が「昭和元禄落語心中」でもかまやしないんです。
結果的に、みんなが落語を好きになってくれれば。
で、私の大好きな噺家さんの一人、立川笑二さんが、男の隠れ家で紹介されてたのですが、そのキャッチにうなってしまいました。
猛毒の子狸て。。すげえしっくりくる。
立川流の期待の二つ目です。
来週の立川談笑一門会も楽しみだなぁ!
というわけで、誰に向けるでもなく、内政的な文章を今年も書き綴っていきます。
今年もよろしくお願いします!
了
沖縄戦という事実
沖縄に行ってきた。
慰安が目的だが、行くからには平和記念館にも行かねばと思い車を走らせた。
私は思春期を広島で過ごしたので、平和教育的なものにそれなりに関心がある。
だが、資料館のあの重苦しい空気はいつでも辛い。
少し前に熊本県水俣市の水俣病資料館にも足を運んだが、それもまたしんどい経験だった。
ちなみに、こうした負の歴史を旅行で学ぶことをダークツーリズムというらしい。
チェルノブイリもヒロシマもフクシマも、言ってしまえばそうした対象になり得るらしい。
話が逸れるのだが、そもそも、「負の歴史」という言葉がどうにも私にはしっくりこない。全ての時代に起こってきた惨禍に「負」という符牒をつけることの意味だ。
惨禍は負なのか。負という言葉には、加害者、もっと言えば強者の視点が入っていると思わずに居られない。被害者にとって、あれは負と呼び得るものなのか。
その辺りを考えだすとモヤモヤしてくるので、ここで話題を戻す。
資料館で見た内容は、正視が辛いものも少なくなかった。
なんとなく避けてきた事実がそこにあった。
私はこれまで大岡昇平や吉村昭など、戦争小説、伝記、はては映画など、その時代を扱ったさまざまな話を見てきた。戦争を知ってきたつもりだった。
だが、そのどれもが「つもり」であって、まるでノンフィクションのように戦争の話に(知的好奇心から)触れてきただけのようだった。
全ての作品は作者それぞれのイデオロギーがあり、媒体という入れ子を用いた、ノンフィクションのノンフィクション、つまりメタフィクション的なノンフィクションになっている。
その間接性が私にとっての絶好の緩衝材となって、戦争という事実を、知的好奇心という無害なレベルまで蒸留してくれていたのだ。
ところが、資料館の中はとてもフラットだった。
思想も信条も関係ない。
ただただ事実として、一般に生きていた人たちが、わけもわからぬまま、戦争に巻き込まれたという恐ろしい事実だけがそこにあった。
個人に抗する術はなく、国家の都合を代行させられる兵士と民間人。
国家も社会も時として間違う。
いやたくさん間違う。
今大事にしなければいけないのは、過去の記憶を紡いでいくことと、70年間の平和という事実の存続である。
特に後者は、戦争を知らない世代である我々こそが主体として考えていかなければいけないのだろう。
たくさん見て、たくさん考える。
それが大事。