シコウノイッタン

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【映画】『ハウス・ジャック・ビルト』~胸糞映画ではなく、空っぽの映画(けなしてはいない)~

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見ました。

 

 

 

▼あまり何も残らない映画

 

その凄惨な映像が話題となった本作ですが、正直、やはり見るのがしんどかったですね。

そして、映画の中には何もない。だから見終わって、「何か」が残らない。

そんな映画でした。

 

話の筋としては簡単。

シリアルキラーであり、技師であり、自分の家の設計を夢見るジャックが、次々と人を殺していく。その遺体を冷凍庫に保管し、それを素材に家を建てる、という……まぁなんともサイコな話。

映画は、自身が作り出したと思われるヴァージという老人と対話をする形で、印象的であった5つの殺人(未遂を含む)について振り返る構成になっています。

そして、最後にヴァージに誘われるように件の人体ハウスを作り上げたのち、地獄への旅路に出る、という……まぁなんともファンタジーのような話でもある。

 

▼コラージュとしての映画

 

冒頭申し上げたように、見ても何も残らない(インパクトは残るが)んですよね。多分、ラース・フォン・トリアー自身も、そんなにメッセージだとか寓意を込めていないと思う。

 

どちらかといえば、ジャックのこだわる美意識と行為(殺人)をコラージュしながら、ジャックしかなしえない独善的な「アート」を映画というフォーマットに落とし込んだ、という印象。(それはそれで良く作ったなぁという感じですが)

 

そうそう、コラージュ(ないしはパッチワーク)というコンセプトを、この映画は強く増幅させて完成させていると私は感じました。

 

①コラージュとしての映像表現

→新旧、さまざまな映像を組み合わせながら映画を構成

②コラージュとしての世界観

→ダンテの神曲なども取り入れ

③人体ハウスもコラージュ

→体を組み合わせる

④5つの殺人のコラージュ

→5つの事件をオムニバスのようにつなぎ合わせて構成

⑤ジャックの美的感覚もコラージュ

→誰かの受け売りの切り張り

 

細かい部分をあげだすと切りがないのでやめますが、そんな感じで、映画としての本質も、ジャックの本質も、パッチワークゆえ、かなり空疎に描かれていると私は捉えています。
ある意味、そういう、パッチワークとして形象的に紡いだ空疎さが監督のメッセージかもしれませんが、その辺は批評家にお任せするとして。

 

見る見ないはあなた次第。

2時間半の胸糞殺人ショー。

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