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素人と落語と書評

落語や社会のはなしなど、つらつらと

沖縄戦という事実

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沖縄に行ってきた。
慰安が目的だが、行くからには平和記念館にも行かねばと思い車を走らせた。

私は思春期を広島で過ごしたので、平和教育的なものにそれなりに関心がある。
だが、資料館のあの重苦しい空気はいつでも辛い。

少し前に熊本県水俣市水俣病資料館にも足を運んだが、それもまたしんどい経験だった。

ちなみに、こうした負の歴史を旅行で学ぶことをダークツーリズムというらしい。
チェルノブイリヒロシマもフクシマも、言ってしまえばそうした対象になり得るらしい。
話が逸れるのだが、そもそも、「負の歴史」という言葉がどうにも私にはしっくりこない。全ての時代に起こってきた惨禍に「負」という符牒をつけることの意味だ。
惨禍は負なのか。負という言葉には、加害者、もっと言えば強者の視点が入っていると思わずに居られない。被害者にとって、あれは負と呼び得るものなのか。

その辺りを考えだすとモヤモヤしてくるので、ここで話題を戻す。

資料館で見た内容は、正視が辛いものも少なくなかった。
なんとなく避けてきた事実がそこにあった。

私はこれまで大岡昇平吉村昭など、戦争小説、伝記、はては映画など、その時代を扱ったさまざまな話を見てきた。戦争を知ってきたつもりだった。
だが、そのどれもが「つもり」であって、まるでノンフィクションのように戦争の話に(知的好奇心から)触れてきただけのようだった。

全ての作品は作者それぞれのイデオロギーがあり、媒体という入れ子を用いた、ノンフィクションのノンフィクション、つまりメタフィクション的なノンフィクションになっている。
その間接性が私にとっての絶好の緩衝材となって、戦争という事実を、知的好奇心という無害なレベルまで蒸留してくれていたのだ。

ところが、資料館の中はとてもフラットだった。
思想も信条も関係ない。
ただただ事実として、一般に生きていた人たちが、わけもわからぬまま、戦争に巻き込まれたという恐ろしい事実だけがそこにあった。
個人に抗する術はなく、国家の都合を代行させられる兵士と民間人。

国家も社会も時として間違う。
いやたくさん間違う。

今大事にしなければいけないのは、過去の記憶を紡いでいくことと、70年間の平和という事実の存続である。
特に後者は、戦争を知らない世代である我々こそが主体として考えていかなければいけないのだろう。

たくさん見て、たくさん考える。
それが大事。