シコウノイッタン

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【雑記】世界最小タフネススマホ「Unihertz Atom」購入~実用性皆無も男のロマン~

目次

 

クラウドファンディングで220ドルで購入

知っている人は知っている、一部ガジェット好き界隈では話題のスマホ「Unihertz Atom」が遂に納品されました。

先代にあたる「jelly」はバッテリー容量が950mAだったので敬遠しましたが、この「 Atom」は性能がかなり強化されたので、飛びつき買いをした次第です。

開封時のわくわく感がすごかった

箱を開ける瞬間はすごくわくわくしました。

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化粧箱

チープですが液晶保護フィルムとストラップ、USB-Cケーブルなども付属していました。

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わくわく……

動かし始めたら現実に引き戻される

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これまで使っていたP9liteと比べると全然違う


ただ、当たり前ですが使いにくいですね。
もうそれに尽きます。

製造メーカーでもあるUnihertzのサイトのキャッチにも使われているとおり「小さいは正義」なんですけど、正義だからなんでも許されるわけではないのが人生というものです。

小一時間触って気づいた難点は以下の通り。

  1. サイズ感の割に重い(110グラム)
  2. 結構、発熱する
  3. 指紋認証の精度がいまいち(今まで使っていたHUAWEI製品が良すぎたとも……)
  4. 液晶の解像感は初期スマホレベル
  5. カメラも期待することなかれ
  6. おサイフケータイは非対応

といっても2、3以外は殆ど織り込み済みですね。
なので、初めはワクワクしたのですが、だんだん淡々といつもどおりセットアップ作業をしていく自分がいました。

さぁ「Atom」を持ってドヤリングしよう!

iPhoneと違ってAndroid端末は露骨に当たり外れがありますね。
それをアプリなりゴニョゴニョしたりして埋めていくのが正しいAndroidの楽しみ方でしょう。
まぁこの「Atom」に関しては、もうタフネス、風呂でも海でもガシガシ使い倒したり、公衆のど真ん中でさっと取り出しドヤリングするのが正しい使い方なんでしょう。
「俺は人とは違うんだぜ」みたいな(笑)

ゲームしたりとか、頻繁にメールしたりとか、ましてやビジネスに使う人には絶対にお勧めしません。ただ二台持ちなら良いかもしれませんがね。


Z3compactも保険で購入。Atomをどこまで使うかは不透明

私は一台持ちなので、正直この機種をどこまで使うかは分かりませんが、とりあえず楽しみながら使っていこうと思います。
まぁ一応、こんなこともあろうかと、先週秋葉原で特価で5000円になっていたXperia Z3compactを保険で購入しています。

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こんなこともあろうかとZ3compactも保険で購入。4.6インチのZ3と比べてもこの大きさ


おサイフケータイも対応してるし、電池も元気なので、たぶんそのうち乗り換えそうな予感。
この無駄な出費に妻の冷笑が浮かびますが、ガジェットとはロマンなのです。
無論、上述した難点も、難点であって難点ではないのです。

赤子を風呂に入れる時間なのでこの辺で。

男性育休日誌2〜育休に入る前のアレコレ〜

 

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育休取得のアレコレ

というわけで、私は8月~11月の三か月間、育児休暇を取得しております。
あっという間に半分過ぎてしまい、きちんと社会復帰できるか心配しています。

今日は取得にあたってのアレコレを簡単に残そうかと思います。


育休意向は2か月前くらいに伝えて、あとは調整、調整

子どもが産まれる前から、育休を取りたい旨はちょこちょこ会話の中に出すようにしていました。
計算してた、とかではなく本当に世間話レベルのことですが、そういう経緯もあって、実際に取得するという話はかなりスムーズに進んだような気がします。
手続きも、指定の用紙を何枚か書いて、上司にハンコをもらうだけのシンプルなものでした。
ただし、取得に当たっては2か月前くらいから、職場と調整を進めていきました。
人事担当曰く、手続き自体は簡単だそうですが、実際の職務においては、一人穴ができるのはなかなか大変なことです。極力残る人たちに支障ができないよう、出来ることは先回りして休暇に備えました。

正直、キャリアのことは考えた

育休を取得することで、「出世に響く」という想像は、私を結構悩ませました。
もちろん、「育児休暇を取ることで不当な扱いをしてはならない」ということは労働基準法(確か)に定められています(公務員はどうだったかな)。
ただ、現場で一生懸命働いている人間と、育児のために休んでいる人間のどちらを高く評価するか、というと前者を選んでしまうのは人間の心理だと思います。
正直、「同期の面々より出世は遅れるだろうな」とも思ってはいますが、その辺は割り切ることにしました。
まぁ職場の評価なんて元来曖昧なもんですしね。

そういう将来あり得るかもしれない幾ばくかの金勘定を取るか、目の前の子どもと一緒にいれる時間を取るか。どちらを取るかはその人次第でしょうね。

お金がない(休業補償金の振り込みタイミングには注意)!

育休中は、基本的に休業補償が受けられます。
取得日数によっても変わりますが、だいたい、毎月の給与の67%がもらえます。
他は分かりませんが、私の場合、年金・保険も免除なので、住民税だけ毎月支払っています。
なので金回りはそんなに悪くないはずなのですが、補償金の支払いにはだいぶタイムラグがありました。
8月20日から育児休暇に入ったのですが、ちょうど8月20日は給与支給日だったので、8月分の給与(実働日数で割るため、だいたいいつもの半額:仮に20万円の半額10万円とします)が支給されました。
補償金は、8月20日~30日分が、9月末に支払われるというシステムでしたので、8月20日~9月末までは10万円で過ごす羽目に。
しかも9月末に入ってきた金額は8月の残り10日分の支給の67%なので、7万円弱。
8月20日から10月末まで、およそ17万円で過ごすのはちょっと厳しいです。。

キャッシュフローのイメージ

  1. 8月20日:8月分給与(+10万円)
  2. 9月30日:8月分の休業補償(+7万円)←Now!
  3. 10月30日:9月分の休業補償(+17万円)


人によっては、赤ん坊の入院費用や家具家財などの購入費の支払いなどがまとまってくる時期かもしれません(私はそうでした)。

というわけで、メインの銀行口座はちょっと綱渡り状態です。
育休取得の際には、当座のお金にも注意が必要かもしれません。
いろいろ入り用で出費も増えますからね。

(繰り返し)お金を取るか、満足度を取るか

以上のように、育児休暇は、キャリアにも響くかもしれないですし(あくまで想像ですよ)、当面の収入も減ります。場合によっては、生涯年収に響く人もいるかもしれません。断定はできませんが。

そうしたいろいろな材料を秤にかけるなかで、最終的には、自分が「どう在りたいか」を考えることになると思います。

私は、目先のお金よりも、子どもと一緒に入れることを選択してみました。
この選択が正しいのかどうなのか(あと、夫が毎日家でニートみたいに過ごしていることを妻がどう思っているのか笑)は、多分、一生分かんないでしょうね(笑)。

子守りを任されたのでこの辺で。
最近、これを聞かせると子供がよく泣き止むので重宝しています。
おすすめです! 

てあそびうた & ゆびあそびゲーム タブレット (音でる♪知育絵本)

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男性育休日誌〜男もすなる育児といふものを〜

 

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▼3ヶ月の育児休暇

8月中旬から3ヶ月間の育休に入りました。
理解ある職場のお陰で比較的長い期間の休みが取れることは、非常に有り難いです。

もちろん、育休の取得は権利であるので、本来的には自由に取得して構わないのですが。
我々を思わず「有り難い」と思わせてしまう、その「何か」が、男女問わず社会人の育休取得を阻んでいる壁なのかもしれません。

さて、今回は総論として、私の日課と所感を書きます。
日課は大体以下の通りです。

▼私(男性)の育児休暇中の家事ルーティン

・朝6時に起床
・朝7時〜9時ごろ、朝食・洗濯・布団の上げ下げなど部屋の掃除
・ちょっと休憩。
・12時ごろお昼ごはん
・16時ごろに洗濯の取り込み・布団などの準備・お風呂の掃除
・17時にお風呂
・18時、赤ん坊就寝
・21時ごろ、就寝(授乳の関係で早めに寝る)
・以下3時間ごとに授乳+おむつがえ

書き出すとこんな感じですが、合間合間に赤ん坊をあやしたり、抱っこしたり、身の回りのことをしたり、こまごました家事をしていると、一日があっという間です。
ぶっちゃけ、育休に伴い、暇つぶしにPS4でも買おうかくらいのことを考えていたのですが、とてもそんな暇はありません(あとお金も)。

妻は授乳とか、料理とかを担当し、私はそれ以外の家事(赤ん坊の身のまわりのこと、掃除、洗濯、洗い物とか)を担当し、うまいこと負担が五分五分になるようにしています。

▼育児+家事のダブルパンチはまじきつい

一方、もしこれをワンオペでやるとしたら、ものすごい労力です。
特に夜中の授乳で、3時間感覚で起きるのが辛い。
休んではいますが、疲れがあまり抜けません。
一人で物言わぬ赤ん坊と向き合ってると、気持ちが塞がったり、イライラしたりする気持ちもなんとなく分かりました。

この育児+家事労働の大変さは、まだまだ理解が進んでいないような気がします。男性も積極的に、育児というか家事そのものに関わる必要性を、この育休を通して強く実感しました。

恥ずかしいのですが、私も育休取得前は、「妻(女性)は育休で日中時間あるんだから、育児+家事くらいチョロいでしょ」くらいの見方をしていたのですが、全く不適当な見方でした。いや本当に。

▼赤ん坊の成長を見れることは心を豊かにしてくれる

まぁ職場環境とか家庭環境とかによって、どこまで男性が育児に関われるかは大きく異なります。
でも小さな赤ん坊の成長を間近で見られる喜びは、本当に得難い価値があるように思います。
育児休暇取得経験者としては、可能であれば1ヶ月でも良いので、男性も育児休暇を取得することをおすすめします。
頑張って、政府の取得目標である(確か)11%を目指していきましょう!

 

お金はありませんが、私はとても豊かです。

 

お金のこととか、取得の経緯、直面する問題などについては、また今度書こうかなと思います。

 

【書評】『世界システム論講義』~教科書の行間にあった一つの事実

 

 

読みました(久々)。
子育てが忙しく、なかなかままなりません。
育児休暇を取得しており、人よりは時間があるはずなのですが。。。
その話も、今度書こうかなと思います。

さて表題の本です。

『近代は「国」単位で見てはわからない。世界史の見方が変わる!』

どうも元は、放送大学の講義らしく、本の中身も割とアカデミックな内容になっています。
本の帯にはこう書いてあります。
『近代は「国」単位で見てはわからない。世界史の見方が変わる!』


まさにこの通り、国を単位として歴史を見る「一国史」観は、その歴史を正しく伝えていません。
というのも、海洋交易が可能になった近代においては、世界の国々は相互に関りを持つゆえ、単独において語れないからです。
つまり、世界の国々は各個としてあるのではなく、地球(グローブ)において、一つの生態系を構築するシステムの一つにすぎません。
これが本書のいう「世界システム論」です。

そして、このシステム論は、機械論的でもあります。
「A」に対して「B」というアクションを起こすと、「C」という結果になる。
こういう考え方です。

これを、先進国・後進国、という区切りに当てはめてみます。
先進国は何故先進なのか。そして後進国はなぜ遅れているのか。
勤勉と怠惰の違いなのでしょうか。

そうではなく、先進国(A)が、かつて植民地となった国々(B)に対して、搾取をしたから後進国(C)になった。
こういう視点から歴史を再認識するのが、世界システム論です。
(メモ:アメリカ合衆国における白人エリート支配層の保守派を指す造語であるWASP(ワスプ):ホワイト・アングロサクソン・サバーバン(郊外居住者層)・プロテスタント(英語: White Anglosaxon Suburban Protestant)は今なお幅を利かせています。しかし、元を辿ると、そのほとんどがイギリスでくいっぱぐれたどうしようもないクズ(原文より)ばかりであることが本書では分かります。または一つの流刑として、イギリス本土に置いておけない人間をアメリカ大陸で使役し、貿易による収益源とする、という一石二鳥の策も採られたようです。WASPの権威丸つぶれ。これを解き明かすのも世界システム論です。面白い。)

歴史は前後関係、世界システム論は因果関係

我々が学校で学んできた歴史は、文字通り、ヒストリーであり、物事の「前後関係」にすぎないのだと私は改めて感じました。
世界システム論でわかってくるのは、「前後関係」に「奥行き」が加わった「因果関係」です。

「歴史」という大局を見るときに、その行間に埋もれてしまう因果関係の事実。
これを洗いなおす世界システム論はなかなか面白いものだと思います。

考えてみると、「歴史」というテーブルに乗せると、つい因果関係が見えづらくなってしまいますが、我々がリアルタイムで見ているニュースなどは、因果関係の塊ですね。
北朝鮮情勢しかり、政治の派閥争いしかり。

ただ、惜しむらくは、私が歴史が苦手、というところでしょうか。
この本を存分に楽しむには、歴史が好きであることが必要条件な気がします。
購入の前には再考してみてください。
そして、読むとこの書評がいかに的を射ていないかがよく分かると思います。
ええ、斜め読みしました。
ゆえに書評も、本の表面をなぞるのみです。

 

【寸評】その2 『幻の動物王国 悪い奴ほど裏切らない』―現代の人間の消え方「狂ってるのはどっちだ?」―

【とんでもない映画を見てしまった】

『平成ジレンマ』に引き続き、これまたとんでもない映画である。
この映画は、千葉の某地域に住む、棄てられた動物たちをとにかく保護しまくる御仁のハナシである。
ここに綴る言葉は、映像の前ではすべて霞むものである。こんな駄文に時間を費やす暇があるならぜひ本編を見ていただきたい。

ただし、最初に注意喚起だけしておきたい。
まず映像はお世辞にも良くない。手ブレがひどい。
あと、スーパーのQ数が小さく、読みづらいことこの上ない。
加えてディレクターの「○○っすか? マジっすか?ウヒャヒャ」みたいな話し方が若干癇に障る。
その辺りは、全編通して少し気になったところ。

【ホンダさんの一面をご紹介しよう】

さて、幻の動物王国こと、「しおさいの里」を運営するホンダさんは奇怪な人物である。
言ってることもやっていることもメチャクチャなのだ。
棄てられた動物を保護しまくるのだが、そこはどう見てもゴミの山だ。ホンダさんは電気もなく、水道もなく、開け放したワゴン車の中で、犬猫とともにくらしている。
もう、なんというか絵面が凄すぎて、上記の気になる事柄なんて吹き飛んでしまう。

ホンダさんは実業家であり夢想家でもある。
東日本大震災で被災した土地を買い上げ、人を育てる寺を作りたいという。そこでは、飼育している犬が放し飼いになるそうだ。
「私ならできる」と断言する。

ホンダさんは著述家でもある。
保護した犬をまとめた写真集を出版予定である。
(どこの版元かと思ったら、やはり文芸社だった。つまるところ自主出版だ。)

ホンダさんの奇怪さはとまらない。
動物遺棄をなくすには、強い働きかけが必要だと主張する。
その方法が常軌を逸している。

国会の前で、保護した動物の首を順番に刎ねていく。
最後にホンダさんが腹を切り、その腸を首相に向かって投げつける。
そうでもしないと、世間は目覚めない。
「俺はやるよ」と。
そして、このハナシを劇中、二度も三度も繰り返す。

いやいや……

ホンダさんは興奮すると、同じハナシを繰り返す癖があるようだった。私は、若干認知症なのではないかと疑ってしまった。

ホンダさんは御年70を超えている。
しかし日常がサバイバルのようなものなので、病気一つしたことがない、と語る。
心身創建で、見回りにくる警察官とよく相撲をとるそうだ。
そして若い警察官を何メートルもぶん投げるそうだ。

いやいや……

【狂ってるのはどっちだ?byプラテネス

彼の口から語られる全ての話が虚々実々としている。
どこまでが本当で、どこまでが嘘なのかまったく分からない。
そう疑心暗鬼になる頃には、もうこの映画の術中に堕ちていると思っていだろう。

でもホンダさんは本当に狂ってるのだろうか?
動物を棄てる人間と、動物を保護する人間、どちらが狂っているのだろうか?
どちらが正しくて、どちらが間違っているのだろうか?
もし、動物の遺棄という事象が存在しなければ、ホンダさんの持つ鬱屈としたエネルギーはどこへ向かうのだろうか?

ホンダさんを巡る考察はどんどんと深みに堕ちていく。

 


【ここからはネタバレになるのでご注意ください】

 

ホンダさんは突然姿を消す。
心身創建なホンダさんは突然亡くなる。

劇的すぎて言葉にならなかった。

ホンダさんとともに動物たちも姿を消す。

狐につままれたかのような気持ちになる。

ゴミの山だった動物王国は、命の消えたゴミの山になった。


身寄りのないホンダさんの最後は分からないが、それを発見した近所の人が、届け出て、近くの寺に葬られたようだ。
王国の前には「ホンダさんは○○寺に葬られています。詳しくは○○市役所に尋ねてください」と張り紙があり、取材班が最後に役所に問い合わせをするシーンで映画は終わる。

役所は、ホンダさんのことをロクに把握しておらず、ヘラヘラとした応対が視聴者の怒りを煽る、なんとも心がザワザワする終わり方だ。

ただし、一応フォローをすると、上記の張り紙も近所の人が厚意で書いたもので、厳密にはその張り紙の内容は役所は把握していなかったのだろう。そういう意味ではちょっと意地悪だったかなとも思う。


さて〆ます。
第一に、単純に、とんでもない人を取材し、とんでもない映画が出来てしまったな、という驚嘆の感情を呼び起こす映画である。
そして、第二に、現代社会における人の「消え方」、「何が正しくて何が間違っているのか」を考えさせる映画であった。
これは見て損はないと思う。
とんでもない映画だった。

【寸評】『平成ジレンマ』ータブーを超えてみたけどもー

現代社会の「タブー」には、どこか蠱惑的な響きがある。禁じられた人間の本能への挑戦とでも言おうか。

タブー (taboo) とは、もともとは未開社会や古代の社会で観察された、何をしてはならない、何をすべきであるという決まり事で、個人や共同体における行動のありようを規制する広義の文化的規範である。(中略)などを通して社会を構成する個々人の道徳の基となっていることも多いが、社会秩序の維持のためとして時の為政者に作為的に利用される危うさも孕んでいる(検閲自主規制など)。(wikipediaより)

ルール、タブーは破りたくなる。はたまた、「破ったらどうなるのだろうか?」と夢想してしまうのは良くあることだ。ルールが人の欲動を抑える役割を果たしていることを考えると、タブーの境界を巡って、人の心が揺れ動くのは仕方がないことだと思う。

衝撃的だった、平成ジレンマという映画。

先日、あの戸塚ヨットスクール戸塚宏氏と、坂上忍が何かのバラエティ番組で議論したそうだ。戸塚氏は相変わらず、相変わらずだったようだ。

それがきっかけで、東海テレビが制作したドキュメンタリー『平成ジレンマ』を思い出した。確か、ポレポレ東中野で見たと思う。
あれは、なかなか強烈な映画だった。

カメラの前で繰り広げられる凄惨な体罰(及びそれに準じた行為)。
殴られる少年・少女。
取材の最中、身を投げた少女。
それらに面しても、張り付いたかのような微笑を崩さない戸塚氏。

映画は、特定のメッセージを加えず、フラットに制作されていたかのように思う。
見終わっての私の感想は「戸塚氏の主張も一部分からなくもない」だった。

戸塚氏の主張が分からなくもないもの

体罰には基本的に賛同できない。
ただし、人と人との向き合い方の中で、すべてがきれいごとで済まされるわけでもない。ほうぼう手をつくし、困り果てた親御が戸塚氏に子どもを預けているのは事実だ。

それらの現実に対し、戸塚氏は、体罰(少なからず劇中では「止めた」と言っているが)という現代のタブーを犯す形でコミットしていると取れる。
戸塚氏の微笑は「他に方法があるなら示してみろ!」といわんとしているかのようだ。
「マスコミ(世間)は体罰(戸塚氏)に対するバッシングを加えるばかりで、対案を示してこなかったではないか」と。
「私は実践をしてきた」と。

そうした「体罰に反対する我々もまた、明確な答えを持ち得ていない」という意味で、私は分からなくもないと思ったのだ。
もちろん、「とはいえ」という前置きが必要なのだが。

戸塚宏氏と教育者のジレンマ

戸塚氏の主張の根底には「誰も何もしないから、こんなことになっているのに、なぜ誰も分からないんだ」というものがある。
それと呼応するように、戸塚氏は劇中「本当はこんなこと(体罰)、誰もやりたくないよね」とも語っている。
これこそが、彼の持つ「ジレンマ」だ。少なからずこれは本音であって欲しい。(氏の言葉が全部ウソならば、ただのサイコパスだということなので……)
劇中、同様のジレンマが教育者の中にも拡がっていると見られる場面もあった。
平成の時代の「理想と現実」の隙間に、このジレンマが潜んでいるのだ。
そのもどかしさたるや。

タブーを超えた先に

この映画が教えてくれるのは、タブーの先に何か桃源郷のようなものがあるわけではなく、その先にある結果は相対的なものである、ということではないか。

もっと観念的に言えば、タブーとは「私」とそれを内包する「社会」の中に、確実にあって、しかし足を踏み入れてはいけない「禁猟区」のようなものである。
その線を「私という個人」が超える行為は、あくまで個人的体験―線的なもの―に留まり、面的な拡がりを持たない行為なのではないか。
逆説的に、もしその行為が面的な拡がりを見せるなら、それは社会の変革のときであろう。タブーがタブーでなくなる瞬間だ。

私には、戸塚氏は、体罰というジャンルのタブーの線を「またぐ」ことに魅せられ、タブーの本質を捉えることを放棄しているように思えた。

【書評】『哲学の最新キーワードを読む-「私」と社会をつなぐ知』小川仁志 –現代社会を取り巻く12のキーワード-

 

公共哲学とは何か? なぜ今、考えなくてはいけないのか?

読みました。
「私」と「社会」をいかにして繋ぐか、を考察することを「公共哲学」と言います(少なからず本書に於いてはこの定義で使われています)。
これまでの公共哲学というのは、比較的シンプルなものでした。

「私が社会を変える!」ではないのですが、少なからず、私という主体が社会に対してコミットすることで、公共哲学の実践がある程度出来ていたからです。

 ところが、近年のテクノロジー進化やグローバル化の影響で、公共哲学の実践はとても複雑化しました。特に事態を複雑にしているのが、本書で挙げられる以下4つの多項知(概念)です。

 ①感情の知(ポピュリズム、再魔術化、アートパワー)

②モノの知(思弁的実在論OOO(トリプルオー)、新しい唯物論

③テクノロジーの知(ポスト・シンギュラリティ、フィルターバブル、超監視社会)

④共同性の知(ニュー・プラグマティズム、シェアリングエコノミー、効果的な利他主義

 これらの多項知は、(場合によっては「課題」、「キーワード」と読み替えた方が分かりやすいかもしれません)いずれも近年の社会を巡る潮流の中で顕在化してきた知です。

現在、これらの多項知が、「私」と「社会」の「間」に潜り込んできて、勢力を広げつつあることが、公共哲学の実践を複雑化させています

 言い方を変えれば、これらの知は、現代社会の一つの障壁であり、これらをうまく扱えないと、公共哲学の実践ができづらくなってきているのです(イメージしやすいところでいえば、インターネットなどは、私たちの生活の一部となっています。もはやネット(=超監視社会)を抜きにして社会を正しく捉えることの方が困難だと思います)。

 本書の趣旨は、これらの解決のためのヒントを探っていこう、というものです。

 

多項知に影響され始めている社会

 では、これらの多項知をどのように飼いならせば、公共哲学を実践していけるのか?

本書の例にもあった、感情の知における「再魔術化」の問題を挙げてみます。

 近年のイスラム原理主義者の台頭(=再魔術化)を見ていると、脱宗教=理性(近代)の時代と逆行する現象が起きているように思えます。この背景には、経済の格差だとかいろいろと蠢いているのですが、いずれにせよ2001年以降、宗教的思想が他者の安全を脅かす事態となる機会が増えました。

こうした現象を指して「再魔術化」とするのですが、これに対して世界は真っ当な解決策を見出すことができていません。

本書で示される解決策はざっくり言うと、非宗教的市民と、宗教的市民の対話です。これらによって「寛容な」社会を創ろうと主張します。

 
また「ポスト・シンギュラリティ」においては、AIという非理性と向き合うには、開発から降りる、という割と大胆な提案がされます。
確かに、私のような一般人からすると、AIの開発は、なんとなく「どこまで」という目標設定が抜け落ち、純粋な「技術の向上」に憑りつかれているような印象を受けます。それが過度になると(本書中にもありますが)、「AIはどこまで行っても、指数関数的な目標を追求するに過ぎ」ず、目的達成のためには、世界すら滅ぼしかねない、という危険性を孕むのかもしれません。

 

これからは、もう一段アップグレードした理性の時代へ

 本書で挙げられている12の多項知は、いずれも非理性的な知です(もちろん、背後には人間が居る場合もあるのですが)。このように、非理性的なものが存在感を発揮してくる現代の潮流で、いかにしてその「非理性」を「理性」で以て飼いならすか?ということが、今、求められているようです。

 そして、本書で提案される「飼いならす=アップグレード」の方法は、「対話」だとか、「ルール整備」だとか、想像以上に普通なのですが、逆を言えば、社会を巡る事象に裏技的なものはなく、人間という主体はあくまで泥臭く行かねばならぬ、と感じさせられました。哲学は、やはり考え続けることの中に答えがあるのでしょう。

 さて、本書の提案をどう感じるかはともかくとして、面白いキーワードがたくさんあり、興味深い本でした。
紙幅のせいで説明しきれていない部分も少なくないと思いますし、どうも言葉が足りないなぁと感じる部分もあったのですが、さっと現代社会を巡る思想の地殻変動をおさらいするのには良い本だと思います。

 

そして、その中で、気になった言葉を個々人が探っていくことが、本書でいう、「公共哲学」のスタートラインになるのだと思います。

 

ちょっと綺麗に〆ようとしましたが、感想がとっ散らかってしまいました。