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相撲が揺れに揺れています。
正直、一ファンとしても戸惑っています。
多分、本質的な「正義」は貴乃花親方の方にあるのだと、私は思っています。相撲という縦社会の中でこれまで「くらわし」という慣習があったとはいえ、その範疇を超えた暴力があったことは、きちんと精算されるべきだと思います。
一方で、「正義」ということを考えると、面白い考えが出てきたので少し書いていきます。
①後出しの「正義」は「身の不遇」から生まれるということ。
往々にして、既存の体制に対して正義を訴える人には、身の不遇であったり、支配への反発であったり、そうしたカウンター的なエネルギーが内在しています。
ところが、こうした正義は割りと歪な形をしていたりして、「確かに合ってはいるんだけど……うーん」的に捉えられて、どうにも最終的にマジョリティを形成するには至らないケースが多いように思います。
漫画やアニメなんかを見ていくと特に分かりやすいのですが、妙に「俺こそが正義だ!」と正義を声高に叫ぶタイプのキャラクターは、ほとんど敵役だったりライバルキャラだったりします。こうした人間が敵に当てはめられてしまうのは、その正義の存在自身に、人は怨恨というか違和感のようなものを感じ取ってるのかもしれません。
いずれにせよ、正義の生誕には、そうした反発の力があるのは間違いがないと思います。
その過程において、マジョリティを奇跡的に得たものが既存の正義であると言えるかもしれません。
そして逆にいえば、振りかざされるような正義は最早正義として成立しえない「っぽいもの」なのかもしれません。
いずれにせよ、これが正義の起源。
②正義は正しいことではない?
で、マジョリティの話になってしまうと、「正義は本当に正しいかどうか」、というよりも数字的な合理性の問題になります。どれだけ大衆との間の最適解になるかです。
さらにいえば、正義は絶対に存在するかもしれないが、市民権を得ない限り顕在化できない、ということです。存在自体に、構造的な欠陥があるといってもいいかもしれません(もちろん、それはモノ・コト、思想一般にも適用できるものではありますが)。
そして、市民権が得られていない状況が、今の貴乃花親方かもしれません。
ここには、後述する組織の倫理という磁場の影響があります。
③現状を支配している正義(ルール、慣習)は言葉を話さないが、不気味に人々を抑圧し、自分自身も自動的に抑圧する。
いわゆる「現状の体制=組織倫理」というのは、鍾乳洞のつららみたいなもんで、長い年月をかけて「作り上げてきたという事実」と「その中で形成されてきた思想」という2つ(もっとあるかもしれませんが)で以て、それを取り巻く人々に無言の圧力をかけます。
本当は動かした方が良いのだけど、「国指定の天然記念物なんでお手を触れないように」みたいな、扱いが難しい存在です。
そして、関係者は、それに折から触れることで「現状の体制」の機嫌を損ねないよう、自らを意識でもって律します。これが自動化のメカニズムです(まんまフーコーの論から影響を受けています)。
組織の倫理は自動的な抑圧装置ですので、ある程度の議論や疑問を自動で排除します。
排除しきれないバグは、組織倫理委員会(偉い人)が介入します。
日常を支配している正義は知覚できないものです。「ある」のが普通で正義として認識されませんが、一般常識、という言葉が一番それに近いかもしれません。
半沢直樹的な義憤の行方。
で、こういう話を書いたのは、まさに正義vs倫理みたいなシチュエーションにあるからです。
私は正義を通したい。
組織は、組織のネジ曲がった都合を押し通したい。そんなせめぎ合いが、今まさに職場で繰り広げられています。(下っ端なので非常に旗色が悪く、降伏寸前ですが)。
この果てには、傷つく双方の姿が目に浮かびます。
それは今回の件でいえば、協会と貴乃花親方、そして一般ファンを含めた関係者たち、全員の姿であり、私と上司と仲間でもあります。
そして、そこを一周したところで、世間一般から見ると、私自身が敵役の顔をしていること気付かされるのだろうと思います。幼稚だとか、エゴイストだの誹りを受けながら。
恐ろしいバッドエンドを想像してしまいましたが、正義をめぐる対立とはそんなもんなのかもしれません。
※メモなので頭の中ぐちゃぐちゃです。
(了)