シコウノイッタン

読んだ本や、映画の話など、偏見だらけの話をつらつらと

【書評】『世界神話学入門』後藤明~どうして世界の神話は似てくるのか?~

世界神話学入門 (講談社現代新書)

世界神話学入門 (講談社現代新書)

 

  読みました。

 

世界各地に散らばる神話の異聞を比較していくと、さまざまな共通項が浮かびあがります。時代も場所も違うのに物語が似る理由は、人間の思考が似通ったものである、という理由のほかに、「神話が伝播した」、という理由が考えられます。

かつてアフリカで生まれた人類は、各大陸へ少しずつ移動しました。そうした道筋と、神話の分布は、軌を一にするのです。
本書は、世界各地の神話を引き合いに、そうした人類の移動と、神話の変化の過程を見ていく本です。「神話学」と名がついているものの、広義には人類学、歴史学を学ぶ本だと言えます。

 

冒頭80頁くらいは神話の要素はほとんどありません。人類の遺伝子的の話や、大陸移動についての説明が行われます。筏とか、カヌーとか、それを可能にした道具とか壁画とか。

一応書いておくのですが、この冒頭を含め、本全体に「神話」というイメージが発するファンタジー感はほぼ無いことには注意が必要です。(表紙もなんとなくファンタジー要素が出ていますし。私は、むしろファンタジー要素が読みたくて、(誤解して)買いました。結果的に人類学も好きなので面白く読めたのですが)

さて、80頁以降、やっと、神話の具体的な話が出てきます。


世界の神話は「ゴンドワナ型神話」と「ローラシア型神話」に大別される


神話学では、神話は2種類に大別されます。ゴンドワナ型神話」と「ローラシア型神話」です。


前者「ゴンドワナ型神話」は、いうなれば、人類史における最初期の神話です。話に脈絡がなかったり、現代の常識では測れない設定(例えば、棒で空に居る神様を突っついたから、空は今みたいに高くなった、みたいな)の話がほとんどです。

あと、一つ一つの神話が独立峰みたいなもので、それぞれの神話にはつながりがありません。従って、『こち亀』の最終コマで、部長が両さんに対して滅茶苦茶キレているのに、翌週のジャンプでは何事もなかったかのように物語が始まる、という矛盾も、ゴンドワナ型神話では当たり前のように起こります。

こうした特徴を持つゴンドワナ型神話ですが、一番注目すべきところは、これら神話において「人間は自然ととも在る」という価値観がはっきりと反映されている点でしょう。

ゴンドワナ型神話は「人間」が「人間」を獲得する前の話です。人間は、世界を成す構築物の一つでしかなかったことが、ゴンドワナ型神話では強調されます(具体的な事例は本を読んでください)。

自然とともに生き、自然とともに死ぬ、というメッセージを持つゴンドワナ型神話は、物事が複雑に絡まり合い、答えの見えなくなった現代において、ある意味「洗練された普遍性」を伝えてくれます。著者は、ゴンドワナ型神話のここに大きな価値を見出しているよです(後述)。


一方、ローラシア型神話は、私たちが良く知る「ギリシャ神話」だとか「ケルト神話」だとか、そうした類の神話です。
こちらは、神話としてのストーリーがしっかり作られ、我々にも馴染みやすい話です。その馴染みやすさが、現代にまで神話が語り継がれている理由でしょう。

 

ローラシア型神話の構造の特徴としては、
①始めに神によって世界が作られ(世界の創生)

②神によって人間がつくられる(人間の誕生)

③人間が堕落し、神が起こる(天変地異)

④世界の終り

のような、時間軸を意識した話が多いことです。


前者と後者を比べると、複雑に絡まってくる物語をきちんと体系化し、整理するあたりに、人類の頭脳の進化を見ることができると言えますが、大事な点は、ローラシア型神話」は物語を通して「私たちとは何か?」という哲学的なメッセージ・問いを提示していることにあります

上記の構造を見ても明らかなように「我々はどこから来て、どのように生き、どこへ行くのか?」という、ゴンドワナ型神話に見られない人間そのものに対する洞察が含まれています。そして、それを物語として伝えることで、(時に権力を肯定したり、人間を聖と俗に分けたり)、人間に対する戒めや訓示を行います。

私見ですが、ローラシア型神話は、人間を戒めるメッセージを発し、制御装置としての機能を果たしている側面が強いように感じます。

 

神話を研究すると人間のルーツが垣間見える?

 いずれの型にせよ、人間の創造力から端を発した神話は、人類の移動とともに少しずつその(内的・外的)世界を広げ、今に至ります。そして、それをリバースエンジニアリングのように逆行させると、人類のルーツが垣間見えるのです。
これは面白いアプローチですね(なんか偉そうですが)。

 

終章では、日本神話についての考察が記述されます。日本神話も、やはり他の神話(例えばポリネシアの島だとか)との連環が見られます。こうした考察を基に、日本人がどこから来たのかを探ろうと、本書では試みます。

 

最期に著者は、複雑化し、答えの見えなくなった社会において、ゴンドワナ型神話が持つ、「自然の一部としての人間」という主題の重要性を挙げます。

自然の中に生き、与え・与えられ、という互酬関係、はたまた原初の思考は、これからの世の中を見るヒントになるのではないかと提案するのです。
確かに近代の中で獲得された人間中心主義は、人間を、地球という様々な連環からなるユニットの支配者に据えました。その歪みは、環境問題などを見れば明らかで、今、各種の問題が次々と顕在化してきている次第です。
そうした問題に取り組む際、「互酬」という少し高い視座から問題を見ることは確かに有効です。ただし、「間接的で比喩的な」神話から、普遍的な要素を抜き出し、現代の問題に当てはめていく、という作業はいささか遠回りのような気がします。

 

効率的を是とする現代において、敢えて流されず物事をしっかり考えていく「スローイズム」という概念が大事だという主張もあるのですが、どうにも我々はせっかちでいけませんね。

いずれにせよ、そうした知識を現代に適用する・しないはともかく、神話を通した人類の発展・進化の物語は、我々の好奇心を強く刺激してくれるものであります。

 

【雑記】『夜と霧』読書会@ダーウィンルーム DARWIN ROOM(下北沢)

行ってきました。下北沢ダーウィンルーム DARWIN ROOM。

DARWIN ROOM

落語会などは何回か足を運んでいるのですが、
読書会は初めてです。
多少臆するところはあったのですが、何度も読んでいる『夜と霧』なので、他の方がどういう読み方をしているのか気になり、緊張しつつ参加した次第です。

冒頭、キュレーターの方から、会や本に関するアウトラインの説明があって、その後、自己紹介を兼ねて、参加者たちがごく簡単な感想を述べていく、というスタイルで会は始まりました。
本の魅力のせいか、30人ほど(この数字は割と多いようです)の参加者がおり、皆思い思いの感想を述べていきました。

『夜と霧』は、反戦争だったり、精神分析だったり、哲学だったり、さまざまな文脈で読み取ることができる本です。この日居合わせた参加者を見ていると、どちらかというと、戦争(平和)という文脈からこの本を捉えている方が多かった印象です。

ですが、何しろ参加者が多いもので、感想を30人が述べるだけで、プログラムの時間がほとんど終わってしまいました。あとはキュレーターの方を交えて20分ぐらいディスカッションを行い、一応、時間は終了。
ただ、ダーウィンルームのご厚意で、そのまま会場を開けてもらい、結局半分以上の方が残って、熱っぽく、さまざまなことについて語り合いました。

気づけば23時。実に楽しい会でした。

後半のディスカッションは、本に描かれていない、フランクルのパーソナリティ(実のところはどうだったのか)など、推論の議論が多くなり、『夜と霧』について純粋に語るところから大分逸れてしまったのですが、それもおそらく、皆さんの感じた好奇心の結果なのでしょう。
最終的には、フランクルを離れ、政治の話、戦争の話、そんなことも話しました。

途中で、欧州の「カフェ文化(誰でも気軽に話し合うコミュニティスペース)」の例が挙げられ、そういう場所は日本にあまり無い(だから議論の芽が育たない)という話がありました。
ですが、ここ(ダーウィンルーム)はまぎれもなくそういう場所だなぁと感じますし、都会の片隅でワクワクするような知恵が練り上げられているような、そんな熱量を感じた会でした。


これは私の場合ですが、「答えのない答え」を人と論じ合う機会は、大人になるにつれ、加速度的に減ってきています。軋轢を恐れるとか、時間がないとか、いろいろ理由はあるのでしょうが、結局のところ、水が流れるがごとく生きることが合理的で、その「楽さ」、「気持ちよさ」「めんどくさくなさ」を大人は手放せなくなるのかなと思います。
ですが、考えることはやっぱり楽しい。特に理由はありません。
だからこうして、自分から進んで外に出ていくことの楽しさを再認識した次第であります。


また読書会は行きたいですね(特に落としどころはありません)。

了。

【書評】『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル~君たちはどう生きるか~

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

 

 読みました。

最近、『君たちはどう生きるか』が流行っていますが、正直、違和感があります。もちろん、あの本は時代を超える普遍的な要素を元来多分に含んでいて、いつの世でも読まれていいとは思いますが、あれ、どちらかと言えば児童書ですよね。
しかも、漫画版だし。
なぜ今更、あれに大人がこぞって群っているのかは。。。まぁ誰にも分からないですね。大手代理店の策ではないことを祈ります。

大人向け「君たちはどう生きるか

のっけから話がそれましたが、読んだのは表題『それでも人生にイエスと言う』。
『夜と霧』が非常に有名なフランクルの著作です。
正直、この本のほうが「君たち(=大人たち)はどう生きるか」というメッセージを強く運んでくれます。私は、むしろ、この方が、意味の消失した今の時代に読まれるべきだと思います。

ここからは、記憶に残る部分をつらつらと綴っていきます。

第一章は、「生きる意味の消失した現代」という前提から語られます。「生の意味」「尊厳」などなど、宗教的な影響力も薄れ、さまざまな概念がどこか疑わしくなってしまった今日この頃。我々は意味を見出しにくい社会に生きている、というのがフランクルの論の前提です。

ですが、実際「生きる意味」など与えられるはずもなく、「人生があなたに何を期待しているか」という逆転の発想こそが真であり、この本の一番大事なメッセージです。

また、一人ひとりの人間が、一回性の生命を持ち、唯一性から代替不可能な存在なのです。だから「私なんてなんの役にも立てない!」なんて気安く話すのは、責任を放棄する行為でもあり、フランクルはそうした言動をたしなめます。
(ただし、その唯一性は、人間相互が暮らす共同社会の中で、責任を果たすことでやっと価値を持つものとも説明しています。例えるならば、虚言癖という性質は差異ではあれども社会的な価値はないですね。)

まとめると、「生きる意味とは、自分で見出すもの」であり、そのつどつど「今・ここ」において、共同体に生きる人として「責任」を果たすこと。これが本書を貫く背骨のような考え方になります。
正に実存主義的な考え方だと思います。
正に「君たちはどう生きるか?」です。

さて、第二章では、それが例え病や苦悩の中にあっても、人間性は決して損なわれないこと。
第三章では、アウシュビッツのような劣悪な環境でも、人生にイエスと言えてしまう、人間の力について語られます。

例えば、病で体が動かなくなってしまったとしても、その運命というか現象に対して、各人の責任の果たし方があるはずです。体が動かなくても、他者を労わる人間性。重い障害がある子どもでも、その子の存在自体が放つ親への愛。
こうした、病などネガティブな要素も、決して人間の生や尊厳、あり方を否定するものではない、ということが具体的事例を交えて語られます。
一番印象に残ったのは老人の話です。
「仕事もできないような老人に価値は見出せるのか?」という問いに対し、その存在そのもの、おじいちゃんのいる空間には、その人だけの代替不可能な価値がある、とフランクルは返します。
どこまで行っても、無価値な人生などない、というのがフランクルの主張です。

レトリック的とも感じられるけど勇気の出る本

本書を読んでいると、「どうも運命論っぽいな」とか、レトリックで人生を前向きに捉えなおす、自己啓発本という感じを受けます。
フランクルもそれを承知していて、かつそれを(やや哲学的な言い回しですが)ロジカルに根拠だてて説明します。その辺の妥当性は研究者や聡明な読者のレビューに譲りますが、それを一般読者が正確に理解できるかは分かりません。私には理解しづらい部分もいくつかありました。

ただ、やはり読んでいると元気が出ます。ナチス強制収容所という地獄を見たフランクルの言葉には、何か分からないけどグッとくるのです。

フランクルの言葉には重みがあります。

時折、人生の末期に際し、さまざまな苦しみ(例えば介護、病気)に襲われ「今まで何のために生きてきたんだろう?」と話す老人が居ます。
また、無残にも生命を奪われた家族を前に「何のために生まれてきたのだろう?」と嘆く人も居ます。
どちらも気持ちはとても分かるのですが、フランクル的な見方をすれば、その人の人生は最後に思い通りには行かなかったけれども、その生の中できちんと責任を果たしたのです。
例えば、家族を慈しみ、喜びを与える。他者を気遣う。それが些細なことであってもかまいません。責任の果たし方は、結局人それぞれなのですから。
また、そうした結果(最後)を嘆き続けることは、その人が果たした責任、行動に対して、目を閉ざすことでもあります。
我々が見るべきなのは、そこではないかもしれないのです。

……という薄気味悪いくらいポジティブな思考に立てるのが、この本の魔力です(笑)

巻末、長めの解説では「フランクルの実存思想」という題で、フランクルの思想を貫く(らしい)「快楽への意思」「力への意思」「意味への意思」などが語られます。
「意味への意思」が三者の中で高次の概念として存在し、それを補完する目的(こういう人生を送りたい)から「性」だったり「力」に意思が向くとか。
この辺はもう少しお勉強が必要です。

了。

【雑記】ホワイトデー・バレンタインデーが義務チョコ(モースの贈与論)

今週のお題「ホワイトデー」

私は若干コミュ障の気があるのか、、職場の関係をうまく築くのはあんまり上手ではありません。
人見知りっていうと、聞こえは若干良くなりますが。

バレンタインデーは義務チョコだ

さて、そんな私でも毎年バレンタインデーには「必ず」職場でチョコを頂きます。
頂けないのが問題なのではなく、「必ず」頂けることが問題です。

もはやチョコの受け渡しは完全な儀式になってしまっているので、私の人間性なんて関係ないんですね。
義理チョコではなく、「義務チョコ」となっています。

正直なところ、こうなると貰っても嬉しくもないですし、一応形式上、感謝の言葉を述べるんですが、気持ちはこもっていません。

これはあげる方にしても同様でしょうけど。

つまり、モースで言うところの、ただの交換の儀礼なんですね(本当は贈与論読んでません。ごめんなさい)。

ともあれ、この貰って、返礼する、という一連の動作がとにかく嫌いです。
いたたまれない気持ちになります。

もらうと、なんか恥ずかしいし。

PRパーソンとしては結構チャンスがありそう

私が企業の社長だったら、バレンタインデーを禁止して(本気のやつは除く)ここに費やすお金を(わずかでも)、地元に還元するとか、寄付するとか、CSR的な話題づくりをしますけどね。

 

早くなくなんないかな。義務チョコ。

下っ端だからできないけど。


 

 【書評】『豊かさとは何か』暉峻淑子 〜短め、書き散らし〜

 

豊かさとは何か (岩波新書)

豊かさとは何か (岩波新書)

 

読みました。
といっても少し前に読んだので、忘れているところもありますが、良書ですね。これは。版を重ねているのもわかります。


メモ書きをもとに、感想を再構築しますと、、、

この本では、豊かさを3つの軸
①労働
社会保障
③経済(家)
から見ていく本だったと思います。

データが古いので、今読むと、時代が違う部分もあるのですが、
むしろ、日本って全然進んでいない、という感想すらいだきます。

今、一生懸命「働き方改革」なんぞやろうとしていますが、この本が書かれた1990年ごろから、すでに問題ははっきりと顕在化してたわけです。
「それを今更何を」感が……

あとは、印象的だったのは、日本人のストレスに対しての対処法の部分でしたね。
「酒を飲む」
「高速道路を飛ばす」とか時代感がある対処方法も在る中で、上位に来ているのが
「ひたすら耐える」でした。

このメンタリティは日本人の不健全さを表していますね。。。

話がそれました。

他に強く記憶に残っているのは、
自己責任論のところ。
自己責任という言葉がなんとなく無責任に使われるような今日このごろですが、社会や政治がしっかりした責任(セーフティネット)を果たした上で自己責任が初めて現れると。

新しい発見でした。
とりあえず、メモ書き

【書評】「今の科学でここまでわかった 世界の謎99 」〜逆にわからなくなる、不思議な読書体験〜

 

 読みました。

私は「ムー」は読まないけど、そこそこオカルト好きなので、この手のジャンクな本は大好きです。

なので、出版日当日にワクワクしながら購入しました。

そして中身はというと、ナショジオ安定のロークオリティ(紛れもない褒め言葉)です。

テイストはまんま下の本と同じです。 

絶対に明かされない世界の未解決ファイル99

絶対に明かされない世界の未解決ファイル99

 

 とにかく2つの本に共通するのは、一項目に対して1ページしか割かれないので、内容が浅いんですね。

とにかく何一つはっきりしない。

もう、むしろタイトルとは真逆で「わからない」「明かさない」といった読後感のみが強くなる。そんな本です。

だが、それがいい

だが、それがいいんです。
そのチープさとか、結局読んでも解明されないのがいいんです。
謎は謎のままが一番素晴らしい。

読者の誰もが、実は「クリスタルスカルの作者は17世紀の職人でしたー」的な種明かしは(そんなに)望んでいない。
というか、期待していない。

「どうせ、そんなこと言ったってわかんないんでしょ?」

っていう半信半疑で騙されることすら楽しむメンタリティで、ナショジオのムック系は読むべきなのです。
私はこの本大好きです(すぐ売りましたが)。

心がつかれたときに読むことを推奨します。

でも、オーパーツとか、オカルト好きな人にとっては、既知のことが多いでしょうから、あまりおすすめはしません。

【書評】『不平等論』ハリー・G・フランクファー卜 〜他人の定規で生きていないか?〜

 

不平等論: 格差は悪なのか? (単行本)

不平等論: 格差は悪なのか? (単行本)

 

 読みました。
やや言い回しは難解なものの、言っていることは割合シンプルな本です。

そもそも、フランクファートは、道徳哲学の分野における大家であり、その「道徳」という視点から、世にはびこる平等主義を批判しているのがこの本です。
第一部では、経済学的分析から平等主義を解体します。
そして第二部では、まさに道徳的な視点から、同様に解体を試みます。
そもそも、なぜ氏は平等主義を批判するのでしょうか?


平等主義はなんら道徳的価値を持たない

さて、「平等に」「格差だ」という言葉は
 ー特に新自由主義の下でその含意を成長させたと思っているのですがー
近年、その影響力を増しているように思います。

ところがその声が志向する、「平等」とやらも「格差」とやらも、それ自体がなんら道徳的価値を持たないことを氏は切々と語ります。
なぜなら、「平等」や「格差」は、「十分に持つもの」と「持たないもの」から派生的に生まれるものであって、根源たる「十分性=充足性ドクトリン」にこそ道徳的価値があり、目が向けられるべきものだからです。

格差は当然なくなりません。
大事なのは、格差があるという前提のもと、その人が十分に生きていくのに困らない程度の財が与えられているかどうか、ということです。ここにこそ、我々が着目すべき、道徳的価値が潜んでいるわけです。

結果的に、十分性を追求すること(例えば税の配分の見直しなど)で、格差が縮小したり、平等性が増すことは考えられますが、そもそもの力点が違う、と氏は訴えます。

批判は続きます。
「平等に」という言葉は響きは良いのですが、要は平等主義というのは究極の効率化、はたまた「サボり」なわけです。
なぜなら、人はそれぞれに置かれている状況は異なります。億万長者の持つ1万円と、貧乏人の1万円は、まるで意味が変わってきます。

そうした現実を排除し、マクロ的視点から平等主義こそがドグマであると信奉していくのは、間違っている、と。(この辺は、先の地域振興券なんかを想像するとその不当性がよくわかります。)
要は一人ひとりの状況をもっと真剣に考えろというわけですね。

そして、一人ひとりの置かれている状況が違う以上、他者との比較自体がさして意味を持たないとも、氏は主張します。

「年収はどれくらい欲しい?」と聞かれ、
「うーん、1,000万くらいあったらね」
なんて会話をすることがあるかもしれません。

でも、この「1,000万円」。一体どこから来たのでしょう?
その人は、自分の人生に必要なキャッシュを計算し、1,000万円と答えたのでしょうか?
違いますね。この数字は借り物でしょう。

平等主義が問題なのは、他者に大きく影響されてしまう点です。
十分性に視点が根ざしていれば、自分に必要なお金はこれだけと言えるのでしょうが、平等主義はどうしても視線が外に向かいます。

そうした意味で、他者の定規で生きてしまう、という危険性を氏は指摘しています。(この辺りの説明はもっと鮮やかなんですが、どうにもうまくいきません)。

これらが、大体第一部の骨子。

第二部は短くて、概ね概念の話です。
私の解釈では、平等とは非常に大雑把で包括的な概念で、その下には、「尊厳」だとか「配慮」といった本質的な概念がぶら下がっているようです。
つまり、第一部でも、平等は十分性の派生的な「ただの現象」として扱われていましたが、そうした関係性です。
本質的な概念にこそ、道徳性が潜んでいて、すべての人を平等に扱うことは、むしろその人の持ち合わせている人間性に目を向けないことであり、尊厳の棄却であると、表現します。


まとめ

最終的に、我々はこの本からの学びをどう解釈すべきか。
一つは無意識的に平等を志向する精神を改め、その対象がもつ本質的なものを見る「まなざし」を獲得すべき、ということでしょう。
それには多大な苦労や、非効率でさえあるけれども、道徳という概念を実践していくには必要な試みです。

そして、そのことを、現在の社会は否定し、平等に扱おうと振る舞います。その誤りを、危険性を本書は批判しているだけなのです。

もちろん、実社会において、個別の状況を踏まえることは不可能です。
そうした事実から切り離され、あくまで道徳的観点から社会を批判していることを氏はきちんと明言しています。
一応補足。

とっっちらかりました。